ハイデガーの存在論的差異・現存在に対する
レヴィナスの倫理主義的背教はよく知られている。

レヴィナスは存在と存在者の非対称的差異を
自己と他者の非対称的差異に位相転換し、
倫理学という別の仕方での形而上学の
存在論に対する形而上学的優位を唱えている。

存在論的差異を倫理学的差異に位相転換するとき、
専ら自己の存在にのみ関わる存在者・現存在は、
他者との関係を受け入れる倫理的主体性である
実存者に位相転換されている。
それは実存=超越の方位を変えることでもある。

超越の方位は存在から他者に変更される。
その際にレヴィナスが問題にしなければならないのは
存在の悪である。

ハイデガーの存在論的差異の差異は
存在論的真理であるところの無ないし否定性であるといえる。
この無は存在者の存在の無底性・無根拠性を意味する。
それはしかし倫理的に見れば
根源悪という他にないものである。

無は悪である。

しかしハイデガーのようにそれを存在論的に見るなら、
それは無という中性的な意味しか帯びない。
だがこの無は単に中性的な無というだけでは済まされない
何か邪悪で積極的な負性を帯びた何かである。

レヴィナスは無の奥底に
〈無い〉あるいは純粋な0であるとは言い切れない、
マイナスの存在の還元不能なざわめきを聞き取る。
それがあの有名なイリヤ(il y a)、非人称の「ある」である。

レヴィナスのイリヤの概念が
カントの負量の概念に通底していることは見易い。
カントに於ける負量の概念はやがて物自体という
非現象的・超越的実体の概念に発展していったものである。

物自体は現象しない(純粋な0であるようにみえる)。
しかしそれは表象可能な対象でないという意味であって、
何も実在しないというわけではない。
そこにはなおマイナスの何かがあるのである。

レヴィナスはイリヤを感覚的なものとしても考察しているが、
そこで複数の物自体からの純粋な触発について、
知覚不可能であるとしてもなおそこになにかがあると
感覚されざるを得ない事態について語っている。

イリヤは現象の彼方に伏在する
何か得体の知れない実在の気配であり、
それは物自体のように不在でありながら
なおそこに無=0とは言い切れない
マイナスの実在があることを告げるものである。

レヴィナスはイリヤの分析において
無の概念を「何も無い」から「何かでない」に、
「存在しない」から「存在者でない」に、
「Aは存在しない」から「非Aが存在する」に
転調しているといえる。

これは九鬼周造が
『文学概論』で展開している存在論にでてくる
欠性的無の概念に該当している。

欠性的無は
論理的には単なる否定(無い=0)であっても、
現実的には他を無化するような
某かのマイナスの存在をもつもののことをいう。

それ故に九鬼は欠性的無を
存在論的には現実存在(existentia)に分類すべきものであり、
真の無であるとはいえないとして彼の無の分類表から外している。
そこで九鬼はカントの負量の概念についても語っている。

九鬼の欠性的無の概念は、彼の体系で説明するなら、
可能存在(essentia)としては無であるが、
現実存在(existentia)としては有であるもの、
いわば現実的不可能存在を意味する。
これを様相論的に言い直せば偶然的存在である。

九鬼が『偶然性の問題』において
批判的に取り上げている様相論理学者C・I・ルイスは、
否定性と不可能性を区別して別々の論理記号で表している。
これは無を区別することに他ならない。

否定性とは二値論理的な概念で、
存在に対する無、真に対する偽、
現実に対する非現実という風に
矛盾律及び排中律に従う二律背反的な反定立を意味する。
つまり単なる否定の無=0を意味する。

例えば存在に対して無というような無は、
存在の単なる否定であり、存在に矛盾的に対立している。
これに対し不可能性は必然性に反対的に対立している。
二つは同様に無であるように見えて意味が違っている。

「Xは存在しない(無い/無である)」と
「Xはありえない(不可能である)」は
直観的にも明白に意味が違っている。
不可能性は否定性よりもその否定の度合が強い。

否定性はXの現実存在を否定しているが
可能存在まで否定している訳ではない。
確かに今、事実において「Xは存在しない」が
「Xは存在することもできた」と言い得る。
この場合、Xは必然的に存在しないのではない。
Xの非存在は偶然的である。

偶然性とは他のようでありえたかもしれないが
事実においてはこれであるということである。
つまりその裏も可能である。

不可能性はその裏をすら否定している。
Xは単に存在しない(偶然的に0である)のみならず、
必然的絶対的に非存在である
(偶然的な0ですらありえない、つまり0の上に0である)。

二値論理的にいうなら、否定の否定は肯定である。
存在の二重否定である非無は存在に転化する。
現実存在は否定されてもなお可能存在であることができる。
否定は可能存在にまでは及ばない。
単に非現実的可能存在が定立されるに留まる。

九鬼はこの意味での無・非現実的可能存在を積極的無と呼んでいる。
積極的無は、言わば純粋な可能存在の存在様相の範疇に属するもの
というべきである。

更に可能存在でもありえないもの、
非現実的不可能存在つまり純粋な不可能存在を
九鬼は消極的無と呼んでいる。

消極的無に単なる論理的否定
(欠性的無に関連して言われていたもの)は
到達することができない。

存在の二重否定が単なる二値論理でいう否定性の無であるならば、
この否定の否定は、その否定作用自体が
全く「他のようではありえない」ので、
必然的に否定それ自身の自己否定によって消滅してしまう。
そうしてこの二重否定は存在(現実存在)に引き返す。

しかしここで重要なことは
この場合の論理的否定を0と考えるべきではないということである。
それはマイナス1であると見るべきである。

わたしは敢えて上に
「存在の二重否定である非無は存在に転化する」
という奇妙なことを書いた。

しかし存在の二重否定は純粋な二重否定ではなく
存在を前提した存在についての二重否定である。

つまり非非A(Aの二重否定)は
Aを肯定し定立することに等しいが、
Aなき非非はAを定立も肯定もしない。
非非は純粋な二重否定である。
純粋な二重否定は何も肯定しないし何も定立しない。
単に己れの否定作用を取り消すに過ぎない。

それは否定しないことを意味するに過ぎない。
純粋二重否定は純粋な無意味に接している。

それは?=非非?というに等しい。
或いは「 」という空虚を二重否定して
「非非 」にしているに等しい。

この「?」や「 」は
存在ともいえなければ無であるともいえない
決定不能なものである。

敢えて言うならこれは
形而上学的不可能者とか超存在であるとしかいえない。

存在の二重否定は
純粋に存在から自立した非無から
存在が誕生することを意味しえない。

純粋な無の無化は純粋非無を生ずるが、
純粋非無は空虚な否定の二乗であるに過ぎない。
それは存在に必然的に転じるとは決して言えない。

純粋非無はそれ自体が無になる。
しかし矛盾律と排中律が前提されているなら、
純粋非無は「他のようではありえない」ので必然的に存在へと転じる。