出来事は出来する。
出来事とは出て来る事である、或いはむしろ、
何事か事が出て来ることが出来事である。

出来事によって出て来た事ないし出来た事と、
出来事の出て来ること・〈出来する〉ということは
同じように「コト」と云っても、その〈こと〉が違い異なる。

出来事とは〈出来する〉ことと
出来したものとしての〈こと〉との
分裂生成的な〈ことなり〉ないし異化・差異化である。

しかし、出来事をそのように
〈出来〉と〈事〉への分裂的〈ことなり〉、
すなわち「出来≠事」として反省的に捉えることは、
一見至当なようでいて、実は、それこそが
出来事を見失わせるものの見方である。

〈ことなり〉は出来事に生成論的な叙述の様式を押付けて
それを歪曲してしまっている。

確かに〈出来〉と〈事〉の二相は相異なる。
しかしこの〈ことなり(異成り)〉は、
〈出来〉から〈事〉が、
その出来とは異なる事態として自ら弁別的に「事に成ること」、
異なる事として事成り出て来ることであって、
既にして語り得るものの圏域のなかで相関的に取押さえられてしまっている。

〈ことなり〉は〈異成り〉であり
〈事成り〉であり〈言成り〉であるが、
この異成=事成=言成は、要するに、
意味的な差異生成としてのプロダクティヴな異化生成運動であって、
まさにその異なりとは違う〈出来する〉こと、
未だその出来せしめる〈こと〉なき出来自体を、
〈こと〉をはじめから目指した先取的生成運動と錯認することによって
実はむしろ覆い隠してしまっている。

つまり〈ことなり〉の生成論においては
「出来事」を「出来≠事」とみるまでは好いのだが
まさにその瞬間に転倒が起こって
「出来→事」が「生成→事」に置換えられてしまっているのだ。

しかし「出来=生成」と考えることは
「事」が既に成立してしまっているからこそそう言えるのであって、
実はそのときにこそ出来事の出来は
「生成」の論法に抑圧され隠蔽され消去されてしまうのである。

むしろ「出来事」は単に「出来≠事」として
「事」と「出来」に分割されるだけでは駄目なのである。

「事」は既に成立してしまったこれこれしかじかの事態を意味する。
それは既に特定化され事化してしまった出来事である。
このような出来事はすでに可視的である。
しかしこの可視的となった出来事の背後に
不可視の純粋出来としての出来事が消えうせている。

出来することと生成することは重ねられ得る。
しかし出来することと生成することとの〈あいだ〉には
埋立てることも掻消すこともできない厳しい擦違いが
かまいたちのような裂傷を切断してしまっている。

この傷は繕い得ない。
そしてこの生傷のような〈あいだ〉こそが問題なのだ。

この〈あいだ〉は間主観性というようなときの間ではない。
それは生きられる距離を空けて調節のきくような、
そんな生易しいメルロ=ポンティ的な
或いは生活世界的な〈あいだ〉ではない。

むしろそのような〈あいだ〉を根底から転覆して
不可能にするような荒みきったスラム街的で暴力的な〈あいだ〉、
ギラつく鋭いナイフのように殺意に研ぎ澄まされた〈あいだ〉、
真空的で残忍で牙をむき、人間に噛み付き
その柔らかい心の肉を食い千切り、抉り取るような
魔性の異変する〈あいだ〉のことをわたしは問題にしたいのだ。

この不連続的距離である〈あいだ〉は、破滅的・災厄的な切断の絶壁である。
そこにはただ顔を互いに背けあうような反発的・拒絶的な斥力しかありえない。

そこは一種のディストピアである。
というのはトポスそのものがそこでは
転覆的・恐慌的に破産し難破し断滅せしめられている他にありえないからである。

この〈あいだ〉の双面である不連続距離ないし不連続的差異を、
わたしは連続的距離(distance)および連続的差異(difference)とは区別する。

不連続的距離はアポスターズ(apostase)と呼ばれる。
それは背教的断絶の距離である。
それは連続的で測定可能な距離であるdistanceとは異なる。
不連続的距離であるアポスターズは
そのような意味での距離としてはまったく有り獲ない。
それはちょうど同一物がそれ自身から無限に隔てられ
遮断されているような様相を意味する。

これを差異として言い表すとしたら
それは異他性(diversity)としかいえない。
しかしそれを非他性(indiversity)と言換えたとしても意味は変わらない。
この語の意味についてはここで述べると煩瑣になるのでここでは述べない。
ただここで言い置くべきことはapostaseにせよdiversityにせよ、
それは背くこと、顔を背けあうこと、
単に違うとか隔たっているとかいう以上に背いていること、
逆方向であること、反発しあっていることを表現しているということだ。

そのような意味でこの〈あいだ〉のディストポスにおいて
〈出来すること〉と〈生成すること〉は
邂逅することの絶対的に不可能な異空間を
互いに異質に異方向から刺し違えあうように擦違い、
互いの不可能性の核心を衝きながら
何かしら絶望的にその絶対的に触れ合わない体の中を
幽霊と幽霊のように異次元的に貫き突き抜けてゆくだけなのだ。
それを過越しといってもいいし、相互超越といってもいい。
または特異点交差といってもよいし、単に交通といっても構わない。
それは全く経済行為とはいえないし社会的ともいえないが、
だがそれにも拘わらず、これは交換なのである。

形而上学的な沈黙交易といっても構わない。
それは極限的な他者と他者との不可能性の邂逅である。
しかし換言すればこれは全く無媒介的な置換えとしての物々交換である。

両者はすれ違いざま互いに相手の財布を盗みあうスリ同士に似ている。
そのようにして双互に何かを隠蔽しあっているのである。

〈生成すること〉と〈出来すること〉は
このように切り離されたものの不可能的な切り結びとして千切りあっている。
それは普通の意味で契約とか約束とかとは言い難いが、
それにも拘わらずこの邂逅なき接近遭遇のなかで、
或いはこの偽りの邂逅のなかで、
お互いが全く知らぬ間に、
交換じみたこと、締結じみたこと、
見かけ上それと区別のつかぬこと、黙契が起こっているのだ。

それは暗黙的な何かの成立である。
だがわたしはそれを暗黙知によるものであるなどと言いたくない。
黙契は暗黙知によって支えられているという
知的な期待は単に残酷に裏切られてしまっていいのだ。

主は常に盗人のように来る。
そして何を落としてゆくか、また何を奪ってゆくか、
その得体の知れない黒い通り魔のような何かなのだ。

いつ、どこで、何が起こるのか、それは不可知である。
そしてこの不可知論が一番健全なのである。

〈物〉の不可知を許せない人々は
単に物を分かりやすくて下らない退屈な代物にしてしまっただけである。
それで物に飽き飽きした連中は〈事〉を神にするために、
もはや物神性を失った抜殻の、誰も崇めぬ偶像を
単に用済みだから破壊したのである。

そこに本当に神業をみているなら
祟りを恐れて怖くて手も出せなかった癖に。

神が死ぬよりも早く物は死んだ。

物神性なき物神崇拝の単に啓蒙的な批判ほど
厭味で下らないものはない。
それこそ哲学者の見え透いた茶番劇に過ぎない。

商品物神崇拝の批判だけでは飽き足らなくなって、
ルカーチにせよ廣松渉にせよマルクス主義系インテリどもは、
それ以外のあらゆる物からその神性を剥ぎ取ることに
何か創造的な価値でもあるかのように思い込んでいる。

だが実際はそれで人間が少しでも解放された訳ではないし、
彼らは少しもそれをするつもりなどない。
単にそれに変わる素晴らしいことを
してやっているつもりになっているに過ぎないのだ。

実際には彼らの物象化論こそ
厭味で独善的で階級的虚偽意識にまみれているのである。

例えば廣松渉が唱導する通りに
〈物〉的世界観に代わって〈事〉的世界観の時代へと
パラダイムチェンジがなされれば、
単に〈物〉に代わって〈事〉が
抑圧的価値(事的物神崇拝=痴愚神礼賛)になるに過ぎない。

そして実際にそうなってしまっていたのである。