出来事は出来する。それは事物のように存在するのではない。
また存在する〈もの〉に必ずしも帰着するとはいえない。

では存在するという〈こと〉の方はどうだろうか。
存在するという事もまた出来事の一様態でしかない。

出来事としての出来事を問い詰めてゆくと、
存在する〈もの〉や〈こと〉には還元出来ない向こう側へと
思考がたちまちに食み出していってしまう。

 * * *

出来事は、ハイデガーのいうような
存在論的差異の内側では捉え切ることができない。
存在論的差異をどのようなものとして解釈するにしても
それはその外側にあふれ出していってしまう。
存在論をどんなに洗練していったところで、
出来事としての出来事は
その網の目をくぐり抜けて外に漏れ出していってしまう。
それは存在論の用語が出来事を記述するには
そもそも適していないからである。
このことについてはハイデガー自身も気づいている。

ハイデガーのいうエルアイクニス(Ereignis, appropriement)は
存在者にその固有性ないし自性としての存在することが
適合的に贈り届けられるという出来事である。
それは存在者の身に起こることで存在者はそれを受動態として受容する、
それを通して存在者はそれ自身に成る(在らしめられる)。

だが、エルアイクニスは
わたしが「出来事は出来する」といっているとき
考えているような出来事よりも遥かに狭く限られた概念に過ぎない。

それは結局のところ或る存在者Aについて
「Aが存在する」という事態が何によってどのように起こるのか、
そしてそれと共に或いはその結果、
Aが「AはAである」つまりA=Aという
自同律に適合するような存在になるということが
どのようにして起こるのかを説明するためにいわれている。

ハイデガーのいう存在の真理は存在者の自己同一的真理である。
つまり或るものはそれ自らに同じものとして存在するという自同律のことである。
古来から形式論理学の第一原理とされてきた自同律の思想は
「AはAである」と「Aは存在する」を
同一の主語Aについて同時に成立する事態として言明している。

つまり主語Aについて繋辞「ある」が
「Aである」(同一的である)と「存在する」の二重の意味作用を果たしている。

このことに関して高橋順一は次のように言っている。

さて「同一律」〔=自同律〕の基底を考えるとき、「A=A」は言表的には二重の層を、すなわち「Aはある」-「AはAである」という二様の次元を重層させているということができるだろう。この二つの層の言表に共通するのは「ある」という述定の契機である。「ある〔ザイン〕」という述定において示される「ある」という事態が、根源的に「A=A」という「同一律」を支えている、と言い換えてもよかろう。「ある」ということが「ある」という事態-このパルメニデス的命題にこそ「同一律」の始源が存在し、「真理」概念の存在論的基盤があるのである。
 だがこの「ある」という事態はその匿された部分を未だ孕んでいる。
 ハイデガーは「同一律」の命題におけるAについて、「それ自らと各々のA自らが同一である(mit ihm selbst ist jedes A selber dasselbe)」といっている。この「と mit」はAが自らに対し「媒介」されていることを示している。
         (高橋順一『始源のトポス』エスエル出版会 一五二頁)


 つまり自同律というのは結局「存在は存在する」というパルメニデスのトートロジー(その裏面は「存在しないものは存在しない」)に基礎づけられている。
 パルメニデスにとって存在は真理であり非在は虚偽である。しかしそれは思考と存在の同一性を実は前提している。彼は言っている。

いざや、私は汝に語ろう、汝はその話を聞きて受入れよ-探究の道は如何なるものだけが考え得るかを。その一つは「それは有る、そしてそれにとりて有らぬことは不可能だ」と説くもの、これは説得の道だ(真理に従うものゆえ)。他の一つは「それは有らぬ、そして有らぬことが必然だ」と説くもの。これは汝に告げるが、全く探究し得られない道だ。何故なら汝は有らぬものを知ることも出来なければ(それは為し能わぬことゆえ)、また言い現すことも出来ないだろうから。
 何故なら思惟することと有ることとは同一であるから。
 必要なるは、ただ有るもののみ有ると言い且つ考えることである。何故なら有は有るが、無(μηδεν)は有らぬゆえ。このことを汝がその心に留めおくことを私は命ずる。
(山本光雄訳編『初期ギリシア哲学者断片集』岩波書店 三九頁)

パルメニデスにおける思考と存在の同一性は
思考と存在という異なるものが同一物であるという意味ではない。
もしそうだとしたら自同律のA=Aは
A=Bという異なるものの同一化に支えられているという
奇妙なことになってしまうだろう。

また同一性はまず「存在は存在する」という風に
「存在」という思考にとっては他なるものにおいて見いだされている。
それは決して「思考は思考する」という風に
「思考」自らにおいて見いだされている訳ではない。

また「思考は思考する」というトートロジーは自同律を構成しえない。
それは「走るものは走る」ということと同じだ。
自同律的に同じであるということ
と普通の意味で同じである
 (例えば今述べたように、
 「思考は思考する」と「走るものは走る」が同じである)
ということは当然意味が違う。
自同律のいう自己同一性は特別な意味での同じであることなのである。

普通の意味で同じであるという場合、
それは大概、二つの異なるものを並べて
そこに何らかの共通性が見いだされたとき、これとそれは同じだと言っている。

例えばここに赤いフロッピーと青いフロッピーがある。
二つは同一ではないが同じである。
つまり同じ「フロッピー」という共通属性がある。
つまり「フロッピー」という共通概念ないしクラスに含まれるという
知的な作用において同じなのである。

このときわたしはまさに同じものそのものを創っている。
「フロッピー」がそれである。

この「フロッピー」は赤いフロッピーや青いフロッピーのように
それらに並んで机の上に在るわけではない。
そのような意味でなら「フロッピー」なるものなど
何処にも存在してなどいない。

敢えてそれがどこかにあるとすれば
わたしの頭の中にあるといえるかもしれない。

しかし、それも正しくはない。

わたしの頭の中には脳みそが詰まっているだけだ。
考えるたびにそれが頭の中に存在してしまうのだとすると、
わたしの頭は何度破裂しているか知れたものではないだろう。

「フロッピー」という類概念と
それに含まれる赤と青のフロッピーは
同じ意味において存在するのではない。
換言すれば存在の意味が違っている。

赤いフロッピー、青いフロッピーは
リアルな個物であり実在するものである。
他方「フロッピー」はイデアルな類概念であり
別に実在するものではない。これが今日の常識である。

しかし、古代ギリシアの時代、例えばプラトンにあっては
この順位が転倒してしまっている。

真実在するのはイデアルな類概念(イデアないしエイドス)の方であって
それこそが現実的にも存在していると見られている。
寧ろ感覚される事物(物)の方が実在せず、可能的なものと看做されている。
それはイデアルな真実在(本体)の朧ろな映像または影でしかない。

ただし当時の一般的ギリシア人がそのように考えていたとか、
「ある」という言葉の意味が古代ギリシアでは違っていたとか
考えるとしたらそれは穿ち過ぎだ。彼らは別に宇宙人ではない。
単にプラトンのような議論好きの
変わり者のインテリたちにとってそうであったに過ぎない。

プラトンは共通属性を実体化しそれを窮極的に在るところのものと考えた。
今日の言葉でいう観念論(アイデアリズム)の元祖にあたる人物である。

常識家のアリストテレスはこれに反対し、
個物こそが現実的に存在する第一義的な実体(第一実体)であるとし、
プラトンのいうようなイデアルな類概念を第二実体として
真実在するものとは基本的に認めなかった。

しかし問題は、
実体と実在の概念の区別が非常に曖昧なままであったことである。
実体は必ずしも実在するとは限らない。

しかし、実体と聞くと、それは実在するものである
とわれわれは考えてしまいやすい。

またプラトニストにとっては
実体は即実在であり更には永遠不滅の真実在を意味してしまう。

だがアリストテレスにとっては
実体は永遠不滅の実在性をもたなくともよい。
それは生成変化の過程で消滅してしまってもかまわないのである。

寧ろ永遠不滅であると考えられるようなものこそ
アリストテレスにとって実体とはいえない。

今日の言葉でいうとアリストテレスのいう実体とは有限な存在者なのであって、
それは例えば現に今ここに実在しているが、
永遠不滅に実在し続けることなどありえない。

それは逆にいうとそれがもう実在しなくなっていても
その消滅してしまったものはまだ実体であるといえるのである。
もはや或いは未だ実在しない実体というものもありえる。

たとえばわたしは現に存在している実体であるが、
わたしが死にその遺骸が荼毘に付され灰燼と煙に帰してしまったとしても、
或いはわたしが跡形もなく消え失せてしまったとしても、
わたしはなお実体である。

アリストテレスはまた別の観点から個物である実体を
(I)感性的および自然的実体(II)不動の永遠的実体に分け、
(I)を更に消滅的実体(自然的および人為的な個物)と
永遠的実体(天体)に分けている。