Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 1-8 死んだ女の名は真理

[承前]

 

 

 ――ふん、行為の結果を心配するカントなどより、神秘主義者のクロウリーの方が余程、現実的な意味でも賢者だよ。きみらはきっと相手にしないだろうが、偉大な思想家だ。
 己れの欲することを為すこと、常識がぼくらを騙してその反対のことを妄想させるのに反して、実は最もこれこそが困難な業であることを認めるべきじゃないか。
 カントは偉そうな口調で言うが、奴の言う通りにするなんて馬鹿でもできる。
 全てを諦め、何もせずにいればいいのだ。
 意志も思考も捨てて、万人とやらいう幻想で脅してくる権力の操り人形になっていれば、誰も文句など言うまいさ。カントこそ正しさを装う詭弁家だ。
 ふん、カントはスウェデンボルグの神秘主義を批判し、続くヘーゲルは、その大著『精神現象学』で、ロマン主義者だけではなく、人相学だのメスメリズムだの当時流行のオカルト神秘主義を糾弾するために大きく紙幅を割いているが、全く、近代哲学の理性の法廷というのは、中世の魔女狩り宗教裁判の異端審問を見事に引き継いでいたのだ。
 ソクラテスやプラトンにはまだ敬虔で神秘主義的な処もあっただろうが、中世神学は魔女を、近代哲学はオカルティズムを、目の敵にしてきた。
 ハッ、そうやって脈々と排除されてきた魔術的思考こそ、ついにやっつけるものがなくなって自己審問を始めたヘーゲル以後の哲学にとって、最後に残された自分自身に対する最もラジカルな問いを誘惑するものではないのかね。
 ハイデガーは芸術と技術、この二つの『術』について考察を巡らしたが、当今これだけオカルトが蔓延しているのに、未だにどんな偉大な哲学者が敢えてこの魔術を真面目な問題として真正面から考察の俎上に上げる勇気を示しただろう! 
 きみら哲学者は本当は魔術が、いつも自分の流れの脇に無気味に流れ続けてきたこの別の知がとても怖いのさ。
 魔術、それは立派にひとつの思想であるというのに、きみたち哲学者はそれに神秘主義のレッテルを貼っていつも葬り去ろうとするのだ。
 だが、ぼくは、きみたち、常に《何故ならば~だから》なる偶像にお伺いを立ててしか行動できない迷信家どもに対し、マイスター・エックハルトの福音を伝えたい。
 《何故なき生》こそ至純の生、至純の自由、至純の神のいます処である、とね。
 まさに賢者とは、クロウリーやエックハルトのような人をいうのであり、カントのような輩をいうのではない。
 カントやヘーゲルこそ理性の神秘主義者だ。
 だからこそ、クロウリーやエックハルトを誤って神秘主義者と言って罵るのだ。
 それこそ理性の法廷とやらいう愚昧な異端審問の正体だ。
 しかし、世界は法廷ではない。ただ裁くことにしか脳の働かない小人が多いだけだ。
 だが、誰が裁いて欲しいとお願いしたというのか。
 誰がおまえが裁かないなら俺がおまえを裁いてやると言ったというのか。
 このような愚劣な法廷茶番劇は必ず賢者をソクラテス裁判して死刑にするだろうが、そんな法廷への愚弄もまたソクラテスよりエックハルトの方が一枚上手だった。
 彼は異端審問官どもに語った。
 《これらの言葉を間違って理解する人がいる場合に、正しいこれらの言葉を正しく語る人間は、それに対して何をなすことができるだろうか》と。
 無論、何もできはしない。そして世の中というのはそういうものだ。
 エックハルトはそのことをよく知っていたが、カントのように自分の口から勝手に出てくる真理に却下の蓋をしなかったのさ。
 何故ならカントにとっては、《できる・できない》だけが問題であったのに対し、エックハルトは、そんな《できる・できない》とは無関係に生きていたのだから。
 だからこそ、彼は他者に「何をなすことができるだろうか」を教えて貰うまで黙っていい子にしていはしなかったのだ。
 賢者というのは、決して《万人》とか《一般》とかいうありもしないものに向かっては語らないものだ。
 賢者の言うことは声の風だ。
 それはいつもこのように呼びかける――聞く耳あるものは聞くがいい、と。
 つまり、人は言いたい放題のことをただ言うだけだということだ。
 聞きたいように聞き、語りたいように語ること、汝の欲する処をなせ、勝手にしろ、それこそが法の言葉であるべきだ。
 ふん、哲学者とは思想の最低の敵だ。
 彼らの行動は総て、知恵と賢者に対する卑しい怨恨に発する。
 彼らに心なんかありはしないのだ。人間の屑だ。
 賢者〔ソフィスト〕のことを哲学者どもは《言葉を愛する者(フィロローグ)》と呼んで蔑んだ。
 しかし、これは自分の影を賢者に投影していたのに過ぎない。
 哲学者は《知恵を愛する者(フィロソファー)》などでありはしない。
 彼らは自分がいかに知恵〔ソフィア〕という女に愛されているかについておしゃべりをするのを好む人種であって、自分より知恵に愛されているかもしれない他人がいると嫉妬して押し掛け、人の恋路の邪魔をする下品な連中に過ぎなかった。
 彼らの関心は常に《われわれのなかで誰が一番賢いか》ということにあるだけだ。
 決して自分と知恵の水入らずの関係に耐えることのできない輩なのだ。
 だが、知ることは喜びであり、愛なのだ。
 ダサい口説き文句で人をクドき落とすことにのみ済々としている見下げ果てた軟派野郎にそんな真心などあるものか。
 彼らは甘い言葉で知恵をクドき、騙すことしか考えていないのだ。
 だが、そんな連中に真の愛は永久に齎されることはないだろう!

 

 すると、森は苦しそうにやや横を向いて言った。

 

 ――きみはまるで恐ろしく厳しく冷たい北風のような言葉を吹き付ける。
 確かにきみは無慈悲なボレアスだよ。彼女をぼくから攫っていった。
 だが恨み事をわざわざ言いにきたんじゃない。何を今更、そんな無益なことを……。
 確かに恨んではいたけれどね。

 

 ――だが、きみはその北風を探しにきたのだろう? 
 風の行方については既にぼくこそが、不幸な博識をひけらかしてみせた筈だ。
 だが、オレイテュイアはこのボレアスの処にも、ほら、見ての通りもういやしないぞ。
 ソクラテス、きみはぼくが幸せだとでも思っているのか?

 森は陰気に沈黙した。

 

 ――まあ、待ち給え。北風は目につくが、つかまえようとしても、さっきの通り、得体の知れないことを語って行方も知れない。
 それが風の言葉というものだ。
 だが、そこに居合わせたのは、ボレアスやソクラテスだけじゃない。
 だれが結局オレイテュイアをつかまえたのか? まだもうひとりいたんだ。
 きみはあっさりパイドロスを退去させてしまったが、追い払う前にもっとパイドロスの言葉に耳を傾けるべきだった。
 疑り深いソクラテスもこのソフィストも足りぬ知恵を競う下衆な明き盲に過ぎない。
 ふん、哲学者もソフィストもこの同じデルポイの暗く深い穴のつまらぬ狢だ! 
 そこで男のことばかり考えるから、女を取り逃がすことになるんだ。
 だが、ニーチェの言い草じゃないが、まさに、《真理は女なり》だ。

 

 思わず口から転がり出たこの台詞に、森はクスッと少しだけ笑った。
 僅かに気まずい雰囲気が和んだのは、女の名が実際、《真理〔マリ〕》だったからだった。

 

 彼女は確かに真理と呼ばれた。
 だが、それは本当の名前ではなく、後からすげ替えられたものだった。
 森もそのことはよく知っていた筈。
 真理という娘は、彼女が死ぬよりずっと昔に既に死んでいた。
 思えば、女は死人の名を既に名乗っていたのだった。
 或る意味で、つまり、その意味では、彼女ははじめから死んでいた。
 われわれ二人は真理という見知らぬ死者と付き合い、それに振り回されていたのかもしれないと、そんな考えがふわりと過ぎった。

 では、彼女の遅きに失したその自殺は、誰の死を本当は成し遂げたのだろうか? 
 その死のなかで、誰が死んだのだろう? 
 死んだのは誰なのか? 
 その死に誰の名前がつくのか? 

 

 奇怪な疑問が、既にその日からやや熱に重く浮かされかけた頭の回りで、次々に騒ぎ出していた。

 そして、そのとき、苦しみが始まった。

 

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