Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 1-6 デルフォイの呪い
――言ったのはパイドロスではないよ。ソクラテスがパイドロスに言ったのだ。
――では、ここに輝く黄金の人パイドロスはもういないのだ。きみがソクラテスだ。きみの言う通り、ぼくは今、幸せではない。
ハッ、この哲学的な問いの優先と、真理とは何かの探求の優位が高らかに宣言されて、『パイドロス』は始まる。
きみもよくご存知の輝かしき真実在だのイデアだのといった高邁なものを探求するという結構なお説教の始まりだよ。
ふん、より優先的な問いをもって低い問いを退けるとき、ソクラテスは自分が低いと称しているその話題について嫌味な位に博識をひけらかしている。自分でテーブルの上をごちゃごちゃに散らかしておいて、乱暴な手つきでテーブルの上を薙ぎ払い、小綺麗に片付いたとみたところで、どーんと真ん中に自家製のどでかいケーキを置いてみせるような遣り口だ。
ところで、その正当化の理由というのが、神話の解明のお遊びの暇な優雅さに対して、自分は思考の仕事で忙しいというのだから、実に感じが悪い。
ソクラテスにとって思考とは、仕事であり、多忙さであり、排他的な関心事だという訳だ。
まるで嫌味なビジネスマンみたいな言い草じゃないか。
押し付けがましい脅迫的な真面目さだよ!
ぼくが非常に反感を覚えた箇所だ。何故、思考が遊戯であってはならないのだ!
つべこべとものに序列をつけず、ただ無心に遊戯する子供こそ本当の真摯さを持っているというのに。
きみも知っての通り、そしてきみには悪いが、ぼくはソクラテスという男が大嫌いでね。
埴谷雄高は《いつも正しさを確信しているかのごとき》ソクラテスに反発を表明しているが、ぼくの理由は寧ろ逆だ。
森をじろりと睨んでから、後を続ける。森もこちらを睨み返している。敵意の相互確認だ。
――ソクラテスには寧ろ正しさの確信が欠乏していたのだ。
ふん、デルポイの神託はオイディプスをはじめ、多くの小賢しい者たちを躓かせ、破滅の運命に引き渡したという呪わしい代物。運命を弄ぶ神の図り知れない謎めいた知恵に、浅はかな人間の分際で知恵の勝負に出ようとしたソクラテスもそのために裁判で死刑を宣告される羽目に陥った。
これがデルポイの人を躓かせる呪いのためではなかったとどうして言えるだろう?
デルポイの言葉はいつも謎の罠を、それを読もうとする者の死角に意地悪く仕掛けている。
ソクラテスもその躓きの罠に嵌められたのだ。
《ソクラテス以上の賢者はいない》というお告げは、自分以外の賢者をソクラテスは問題にしてはならないという警告だったのだ。
無知の知とは愚劣極まりない卑下だ。
この答によってソクラテスは神託に値しない見下げ果てた男になった。
逆にこういうことができる。《わたしは自分が賢者であることを知っている》という幸福な人間は、誰より自分が賢いとか賢くないとかを問題にしないものだ。
ソクラテスは寧ろ、《わたしは賢者である》という命題と《わたし以上の賢者はいない》という命題の次元の違いを考察するべきだった。
前者は絶対的な素晴らしい次元にあるが、後者は前者に比較することすらできない。
というのは後者は否定的で相対的な実に卑しい次元で発言されているからだ。
それは疑似問題を構成する。
そしてソクラテスが歩み出していったのはそうした卑しむべき道でしかなかったのだ。
ソクラテスは自分が無知であることを知っているという通りに、下らない男だった。
それによって彼が証明しようとしたのは、空しい議論によって無知が知に勝つことができるということでしかなかったのだ。
だがこの勝利は空しく下劣な行為だった。
ソクラテスなんかチンピラだ。そして哲学はこの無知への道として始まったという訳だ。
揚げ句にパルメニデスの思考と存在の一致が真理だなどという一者の寝言が始まるのだ。
幸福な馬鹿者が自分だけが偉いと思い込むご都合主義的お目出度さは、ぼくがさっき言ったような幸福な賢者の姿に一見似ているが、その理性とやらいう殻を被った亀のような自閉症的態度と、その理性の石頭のように硬い甲羅で外界の真理ならざるもの、つまり己れの思考に一致しないものを、《非存在》の名のもとに圧し潰し、現実に人間を殺す権力の真髄に言質と病的な自信を与えてきたのは歴史の教える通りだ。
あっは、全く悪魔の発明だよ!
弁証法〔ディアレクティケー〕という論理の恐喝術はちっとも産婆術なんかじゃない。
それは常に自分の都合の悪いものを間引きしてきた産婆の中絶手術だったんだ。
ソクラテスは人を亡きものにするための言葉の用い方の発明者だった。
つまり哲学という悪意の問い、忌まわしい《何故》の、純粋な疑問ではなく扱き下ろしのための罠のような《何故》を誘導の武器として用いる新しい技術〔テクネー〕の作り手だったのさ。
哲学者とは最初のナチだ。
そして、最大の哲学者だったハイデガーはものの見事にナチストだった。
それは権力者のための言語だ。
プラトンのアカデメイアにせよ、またその主著『国家』にせよ、如何にして秩序から逸脱した詩人や芸術家を弾圧し、有能な政治家を生み出すかについての陰 険な思考の産物に過ぎない。
そして奴らが最初に血祭りに上げたのは、《賢者たち(sophists)》だった。言語による殺人だよ!
――きみだって、哲学青年じゃないか。
――だが、学者じゃない。学者になることもないさ。ぼくは寧ろひとりの思想家だ。哲学者などではない。ふん、きみは大学院に進んで、他人の思想を解説し、学生を教えシゴくさぞやご立派な教師になるんだろうな。ぼくが望んでも決してなることのできないものに。
そして自分はアカデミズムに守られながら、図書館にたんまりある分厚い書物を武器に、ものも時間もない巷で必死に考えるしかできない貧しい思想家たちの頭を叩くのだ。
何を使う? ヘーゲルの『精神現象学』なんかは分厚くて実にいい凶器になるだろうな。
段階、段階と小気味のよい音を立ててぶん殴って、失神した奴を、便利な体系の抽斗〔ひきだし〕をひょいと開けて、そのなかにぽいと片付けるのさ。昔は賢者〔ソフィスト〕の名で葬られたからまだ良かった。今では愚者の名で葬られる。ひどい話さ……。