Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 2-6 盲いた仏陀

[承前]

 


 稔は、実は娘があなたに言った程恐ろしい人ではなかった。


 彼は寧ろ穏やかな人で、娘にも優しかった。
 長じるに随ってその静かな人柄が分かってきた。


 わたしたちの母が過度に彼を嫌い恐れていたので、娘までそれに鋭敏に反応して、やがて恐怖と嫌悪が感染してしまっただけのこと。
 思い出してみれば、悪魔というのは余りにもひどい。ひどいばかりか正反対といってもいい位だ。
 不思議な力は持っていたけれど、稔は聖者が悪魔を抑えるように、その内なる魔性を静かに治める術を心得ていた。
 彼は孤独を好み、人中を避けて少し後ろに下がるところがあったが、それは彼が長く盲人であったためだけではないと思う。
 憐れみ深く思慮深そうなその顔立ちは、まだ若い少年のものとは思えない位に内に多くの襞を秘めていた。


 彼のもつ雰囲気も独特のものだったが、あなたが激しく恐るべき光の虎だとしたら、兄は穏やかで知恵深い老いたる闇に蹲る黒い龍のようだった。
 実際彼はどこか老人のようにも見えた。
 年齢を越えた神秘的な知恵と慈悲深さを漂わせている。
 とても目立たない人だったが、それは気配を消していることを好むためだった。


 兄は明らかに傷ついていた。口にはしなかったが、母に嫌われていることを非常に辛い諦めの思いで受け止めていたのだろう。
 あの不思議な性格はそのために生まれたのだ。
 兄は非常に無口でいつも何処か悲しげにみえた。
 引きこもって静かにしていることを好んだのは、自分を周囲から守っているというより、己れの内なる悪魔の力から周囲の人々を庇うためだったのではないかと今では思われる。
 誰よりもその異様な力で傷ついていたのは兄だったのではないかとわたしは思う。


 そしてあの恐ろしい事故で、本当なら死んだかもしれない父と姉を救ったのはまだ小さかったその盲らの少年だったのではなかっただろうか。


 あなたが、娘の言葉に抗してわたしたちの兄に同情したのは、ミノルというその名の不思議のためだというより、今ではやはり当然のことだったのではないかと思う。


 兄さん、わたしの可哀想な兄さん。今では姉の真理のことより、あなたの方が愛しい。
 わたしは最後に会ったときのあなたを思い出す。
 母が亡くなって角膜の移植を受けたあなたの目の繃帯が取れた日のこと。わたしは初めてあなたの開かれた目を見た。永遠にその目の貴い美しさを忘れることはできないだろう。


 それはとても澄んだ深い泉のような瞳で、優しい悲しげな光を湛えていた。
 目が見えるようになったことを喜ぶというより、目をくれて死んだ母のことを愛し悲しむ瞳だった。


 あれ程あなたを嫌った母なのに。


 父の取り計らいがなければ母はきっとそのあなたの瞳を潰したままにして、他の人に目をあげてしまったに違いない。


 思えば最後までどこか我儘で独りよがりな人だった母。
 母には確かに少し冷たいところがあった。


 悪いことは何もかも父やあなたのせいにして、都合の良いときだけ利用する。
 あの日もそうだった。


 わたしは覚えている。あの日、美術館の落成式であなたはとても美しい曲を奏でた。
 それは《生まれざるものに捧げる哀歌》、別の名前を《存在のエレジー》という不思議な曲。
 ヴァイオリンを奏でるあなたは小さなオルフェウスのように見えた。
 あなたは周囲をよそに、その決して見開かれぬまなこを益々深く冥府の底のような自分自身の暗闇へと沈潜させ、本当に心の籠った、生涯忘れられぬあの暖かい優しい曲を弾いていた。


 それは、美術館に集められた、現実に生まれることのできなかった美しい夢や不可思議な幻想の形たちに捧げた曲として披露されたけれど、わたしは知っている、あなたはあの日、もうひとりの真理のことを思って、死の水に沈んだあの白髪の娘のためにだけ、一心に調べを捧げていたのだ。あなたのエウリュディケー、そして娘のオフィーリアのために。母の愚かしい偶像のために。


 その日、わたしは泣いた。あなたの演奏を聞きながら、娘も涙が止まらないでいた。
 あれ程あなたを嫌っていたのに、あなたの思いを込めた弓の運びがが娘の心の頑なな琴線をも震わせたのだ。
 その時、娘は初めて、《愛》というものを教えられたのだ。


 娘はその日、姉の真理への愛に目覚めた。
 それをあなたの魂を込めた演奏から学んだのだ。
 そんなあなたのことを『悪魔』であるだなんて……悔やまれてならない。わたしは恥ずかしい。


 兄さん、何処かで生きていてほしいと思う。
 生前、あなたの妹は無情に過ぎた。


 父を独り占めしているようなあなたにきっと嫉妬していたのだろう。
 実際にはあなたは父よりもずっと大人で、愚かな父を優しく窘めるようにいつも距離を取ろうと苦労していたことが今では素直に分かってくる。
 あなたは家族に捨てられたその老人を哀れんで支えていてくれたのだ。
 父があなたを愛したのも当然だろう。画家の父には人を見る目があったのだ。
 目の見えないあなたは闇のなかで全てを見通し全てを許すことのできる聖なる子供。小さな盲いた仏陀だった。父にはあなたが持って生まれた運命の影もその特別な淨い魂も見抜く力があったのだ。