〈8〉の字螺旋の永劫回帰は、分割不可能な〈陰〉と〈陽〉。
 それは〈6〉と〈9〉、
 〈シックスナイン〉〈69〉それは巨蟹宮のマーク。

 〈8〉は〈6〉と〈9〉、
 〈陰〉と〈陽〉の間にあって、
 本来はそれを一体に繋げている分割不可能性だった。
 この分割不可能なもの(individual)こそが本来の〈個人〉である。

 〈6〉と〈8〉の間に〈7〉が割り込むことで、
 〈個人〉は分割可能なものとされた。
 これが対人恐怖の〈別人〉(dividual)である。

 それは〈7〉という割り切れぬ数によって
 〈6〉〈9〉の間を割り切り〈気詰まり〉を引き起こす。

 〈7〉は常にやな奴(878)のはじめである。
 〈嫌な奴〉は無限を分裂させ、夢幻を二重化させ、
 子供の夢を大人の夢に掛け合わせることで虫けらにするのだ。

 7がなければ8×8=64は不可能なのである。

 〈7〉は黙示録的終末の数で、死の恐怖を意味している。
 それは〈6〉を抑圧する数である。
 〈7〉は明らかに権力の介入を暗示している。

 〈7〉は〈切る〉のなかにも姿を見せている。
 それはキル――〈殺すぞ〉という脅しだ。

 〈個人〉は本来は無限な存在である。
 〈8〉は〈69〉に等しい。

 数学者は嘘をついている。
 数学はだから無意味な学問なのだ。
 無意味とは無味乾燥ということである。
 数学者は〈個人〉を虫けらにするのに貢献している。
 〈葉っぱ64〉の点取虫というわけだ。

 そのために九九を創造した。
 九九によって〈掛ける〉という演算が生じ、
 自然数のもつ意味の世界が破壊された。

 九九は〈個人〉の首をくくる〈犬〉の首輪の最初のものだ。
 〈犬〉とは〈いぬ〉もののことである。
 もはや生き生きと生きては〈いない〉もののことである。

 〈掛ける〉とは学校の椅子に腰掛けて
 先生のいうことをよく聞く馬鹿になれという侮蔑である。

 足し算・引き算も
 〈起立〉〈礼〉〈着席〉という犬の芸当を身体に叩きこんで
 こどもをいじけた卑屈な人間にするのに役立つ。
 その後〈掛け算〉が仕込まれるのは、
 この鎖に繋がれた〈犬〉のそれでもまだもっている
 分割不可能な〈個人〉としての最後の誇りを踏みにじって、
 先生に口答えもできぬ
 卑しい〈非人〉にするための〈洗脳〉なのである。

 無論目的は〈割り算〉にある。
 そうやって割り切れぬ筈の物事を
 無情な理屈で割り切ってしまう
 〈もののあわれ〉の分からぬ
 心の冷たく凍った〈チルドレン〉が完成するのだ。

 それは冷凍人間であって、恐怖でコチコチに固張っており、
 故に簡単に叩き割ることができる怯え切った子供である。

 集合論と数学は、
 自然数の花園で遊び戯れていた
 立派な一人前の人格をもった尊厳ある〈個人〉を、
 学校という集合(クラス)の一要素(メンバー)に陥れ、
 その人格を無視し卑しめようとした〈恐怖の大王〉の発明である。

 その企みを見抜いたこどもは
 だから九九の丸暗記をとても嫌がる。
 当然だ。暗記とは心に暗闇を記すということに他ならない。
 それは心を破壊することだ。

 〈69〉とは〈無垢〉な心を意味する。
 無垢な心とは童心であって、
 童心はその69の内に8なる
 不思議な無限の螺旋軌道を描いて回る
 蜜蜂たちから甘い命の蜜を享受して生きている。
 それはテオーリア(観照)であり、本来の哲学の理想とする態度である。

 観照は蜜蜂の囁きを通して
 永遠の生命についての秘密の知識を自ずと悟らせる。
 だから本来は〈哲学〉は児童の叡智を高めるのに
 非常に役立つ易しく優れた学問であった。

 だが、それは自然哲学のことをいっているのだ。
 皮肉屋の学である〈鉄学〉のことではない。

 哲学を不自然学にし、
 役にも立たぬ有難迷惑な気難しげな学にしてしまったのは
 大馬鹿者で出来損ないのソクラテスという
 老婆心たっぷりのみにくい産婆の小伜が最初だったという。

 誰もが知るように、哲学に
 人の言葉の揚足を取って演説を中断させ
 気分を悪くさせる厭味な精神の毒物が混入されたのは、
 デルフォイの託宣の風流を素直に解せず
 自ら運命の皮肉を招いたこの醜男が最初である。