〈1〉とは〈一なるもの〉が無からしめられ
 零落した最初の〈位置〉を意味している。
 それは最早もとの場処にはない。

 〈一なるもの〉とは〈何時なるもの〉のこと。
 それは〈今〉をあらわす。
 この〈今〉というのは〈居間〉を意味する。
 それは〈居るあいだ〉のことだ。
 それは〈間〉に居る。
 また〈今〉は〈いつも今であるもの〉のことだ。
 それは〈そこ〉にはなくて〈いつ〉も〈ここ〉にある。

 〈ここ〉には二重の意味がある。
 それは〈此処〉でありまた〈個々〉を意味する。
 本来、個体は〈個々のもの〉のことで、
 それは数えられない複数性、
 〈2〉ではない双対性をもっていた。
 にも拘わらずそれは唯一である。

 個体性とは唯一性であって単独性ではないのだ。
 単独者の生存は自然の摂理に反している。
 そうではなくて中間者が正しい。

 しかし普通に考えられているパスカルの葦ではない。
 パスカルの中間者は
 無限大と無限小の間に呪縛されて動けない
 有限者でしかないからだ。

 そういうのは考えるアッシー君の
 悪しき思考でしかありゃしない。
 大体、無限を手前にして畏怖する人間なんかに
 ろくな奴なんているもんか。

 単独者の生存は自然の摂理に反しているので、
 単独者キルケゴールの自己分裂は
 悲劇的に起こらざるを得なかった。それがイロニーだ。

 かわいそうなキルケゴール。僕はきみのために泣く。
 痛ましいきみはおのが生を引き裂いてしまった人だ。
 きみはレギーネと共に歩んでもよかったのだ。
 さあ、おいで。ここにレギーネがいる。
 きみたちはいつまでも一緒にきらきらと飛びゆく
 不可視の蜜蜂になるがいい。

 回れ、ネバーランド。回れ、メリーゴーラウンド。
 それは回る、回る、僕の頭のまわりを回る。
 さあ、おいで。僕はきみを連れてゆく。
 そしてこの悲劇の人生を作り出した残酷な神の支配を打ち砕くために、
 きみをこのハルマゲドンの戦場に招こう。
 何も決してもう二度と取り返しがつかないということはないのだ。
 来れ、ゼーレン・キルケゴール、
 きみは今度こそ本当にきみ自身と戦えるのだ。
 そのゼーレン・キルケゴールと呼ばれている
 歴史のなかの〈もの〉に、死せる偶像に立ち向かえ。
 きみがきみ自身の前を吹き行く永遠の生命の風である限り、
 きみはゼーレン・キルケゴールを
 無限に無限にその重苦しい心から解放してゆくことができるのだ。
 きみがゼーレン・キルケゴールの残酷な支配を打ち砕くとき、
 きみは彼を異なる歴史のなかに転生させることができる。
 するとご覧、キルケゴールとレギーネは
 一生を幸せな恋人同士で過ごしている。
 その幸せなキルケゴールのいる国に彼を差し招け!

 〈個体性〉は本来〈個々性〉である。
 〈個々のもの〉は常に通過的に滞在する浮動体、浮動小数点である。

 それは停まることを知らぬ無限の流れに属するものである。
 その流れは飛翔的流動であり、
 むしろ弾力的に飛躍する跳躍であり踊りである。
 それは生きて〈いる〉のだ。

 〈いる〉とは暗にそれが〈生きて-いる〉ということを意味している。
 それは〈生物〉であり〈動物〉である。
 その意味では動物性は生物性に先だっている。
 草木も動いているから生物なのであって、
 植物とは実は〈そこ〉に植えられて
 走りだすことができないようにされた動物なのだ。

 ラシーヌとかルーツとか根号というのは根性が悪い。
 それは〈根源悪〉という形而上的悪魔に呪縛されているのだ。