〈頁〉、それは通り抜けることのできるもの。
 頁をくぐり抜けるときに、あなたはあなたとすれ違う。
 自分自身の透明な影を追い越す。
 そのことを通じて、
 あなたはあなたという
 一番なぞめいた物語の本の頁をめくっている。
 これはそう、とても単純な通過というもの、
 ひるがってそれは単純過去というべき
 時をめくられた頁の向こう側に置くということだ。

 通り過ぎた時は頁の彼方へと白く過ぎ去る。
 決して戻らない消えゆく過去というものはある。
 単純過去という時制はとてもきれいなものだ。

 生きるということが
 とてもきれいなものであるということを、
 わたしたちは単純過去――この二度と決して戻らない時の
 いちばんきれいでシンプルな経験から学ぶ。

 単純過去とは解放、
 自由な明るさのなかに
 わたしたちの〈今〉を、
 わたしたちの心を解き放ってくれる。
 今は明日に、明るい日に変わる、
 それは清々しく爽やかな解脱の経験だ。
 生きるということは
 とてもあたたかく仕合わせなことなのだ。

 わたしはこの軽やかな優美さが好きだ。
 生きるとはとてもエレガントなこと。
 すれちがう死といつもお友達でいるということだ。
 死はわたしたちひとりひとりに好意をもっている。
 いつも過ぎ去る起こらなかった出来事として
 パラドクサルに起こっているこの死は、
 むしろわたしたちを絶えざる復活の優美さへといざなう。

 わたしたちは明日を生きていい、
 いつも明日に生まれ変わることができるのだと
 教えてくれる。

 今が明日であるというのは
 今はいつでも時の明け方なのだという教えなのだ。

 時の明け方という言葉は
 裏を返していえば時の開け方ということを告げている。
 それはまた、時の空け方をも教えている。
 時は明け、時は開き、時は空けられる、空の広がりへと。

 時、それは空の広がりの始まり、
 わたしたちはいつも鳥のようにそこへと巣立ち、
 はばたいてゆく。生きることは飛翔なのだ。

 わたしたちは生きる、鳥の翼からは風が起こる。
 風は空気の頁をつぎつぎにめくりながら
 そのなかを通り過ぎる飛ぶ翼にほかならない。
 それはいつも未知なる遥かな出来事への
 憧れに満ちた出発なのだ。

 頁とはこのような天使の翼のことだ。
 それは決して毟り取られることがありえないし、
 あってはならないものだ。
 それが毟り取られることがありえないというのは
 本というのは決して破壊しえない
 永遠に純潔なものだからである。
 本は読まれるものだが、
 それ以上に飛ぶものであって、
 その飛来する翼の力を誰も決して奪い去ることはできない。

 真の本というのは、
 わたしたちが普通一般に
 それが本なのだと信じ込んでいる紙の束とは違って
 どんな物理的実体ももたない、
 幽霊よりも透明で不可視なもののことで、
 それは実に〈本体〉というにふさわしい体を持つが、
 むしろそれこそが真の意味における実体なのだ。

 けれども翼を毟られなくとも
 眼が抉り取られるというようなことは起こりうる。

 眼がなくなるというのは読む力が失われるということ、
 そして読む力を失った眼には
 物が見えなくなるのではなく、
 物しか見えなくなるということが起こってしまう。
 するとそのような瞳は〈本〉を見失う。

 〈本〉は、みるみるうちに擦り減って、
 手前から忽然と失せてなくなる。
 すると頁はもうめくれなくなり、
 石のように固くこわばり、
 立ちはだかり、世界と人生からあなたを遮断し、
 締め出しを食わせる〈壁〉となり、
 〈門〉となり、〈塀〉となって聳える。

 意味がもしあなたにとって牢獄であるならば、
 あなたは生きていない。
 牢獄とは閉じ込めるもの、
 そしてまた閉め出すものである。

 それをわたしは〈頁〉との対比で
 今、特に〈壁〉と呼びたい。

 〈壁〉、それは実際は
 凍りついた頁であるに過ぎないものだが、
 これほど重苦しいものはない。

 〈壁〉はいつも鈍重で無意味な区切りを強いて、
 内と外を別け隔て生を固定しようとする。
 固定された生はそれこそ死んでいるも同然というもので、
 実際上そのような事態の苦さを、
 〈死んでいる〉と言わないとしたら、
 〈死〉という言葉は何のためにあるのかが
 そもそも意味をなさない。

 それにもかかわらず〈壁〉の重苦しい呪縛のもとでは、
 それを正当に〈死んでいる〉と直言することさえ
 許されなくなる。
 せいぜい婉曲に〈死んでいるも同然〉と事を歪め、
 唇を蒼白く歪めて言うことしか許されなくなる。

 〈壁〉はその区切りの力によって空間を分割する。
 内と外とに分割するというのは全くの間違いだ。
 切り離された空間はどちらも〈壁〉の内部にある。
 その間に循環はないが反映はありまた反転はある。
 二つの内部のいずれかを内とすれば
 他方は外となるという
 ただラベルを張り替えるだけの
 この馬鹿げた論理ゲームはいくらでも入替可能であり、
 またいくらでも堂々巡りさせることはできる。
 しかし形というものは決して変わらない。

 わたしはゲシュタルト心理学というものを
 とても軽蔑している。
 エッシャーの絵もまた非常に不愉快なものだ。
 これほど安っぽい手品というものはない。

 パズルは人に何も教えない。
 薄汚く病的で、時間つぶしにしかならない
 反創造的なゲームで、
 こうしたものを有り難がる目を白黒させた人間には
 少しも知性的なところがない。
 同じことは、ウィトゲンシュタインの
 非常に下らない哲学についてもいえることである。
 記号を愛する人間は言葉を駄目にする。
 また数学や幾何学を愛しているつもりでいて、
 実は数や形を少しも愛してもいなければ
 理解もしていない。

 自分たちがどれ程退屈で下らない人間であるか、
 そうやって無意味を作り出しているだけなのが
 分かっていないのである。

 形の本質はむしろ変容にあり、
 形とは変わりゆくもののことである。
 変化の運動に向かって開かれていない形というのは
 寧ろ形の屍骸である。

 数もまた単に計算可能な量をしか意味していないとすれば、
 そのような数学は数について何も教えていないばかりか、
 数の豊かな概念を単に損なって
 見窄らしいものに削り落としているものに過ぎない。

 数学の創始者はピュタゴラスであり、
 また古代のインド人たちである。
 彼らの目に映った本来の〈数〉には
 より豊かで深い意味内容が息づいていた筈である。

 そこから見れば数を玩具扱いして
 馬鹿げた定理や公理や法則を捏造して喜んでいるだけの
 現代の変質者たちは、
 数学者の名にも値しない愚鈍な人々である。
 彼らは数を命のない記号だと思っている。
 己れの学問の名を辱めるようなことばかりしている。

 論理学者や言語学者も同罪である。
 論理や言語を侮蔑して
 貧弱で不自由なものに変えようとばかりしている。

 そうやって〈壁〉の強化に仕える。