存在するのでも、存在の彼方へ無限に亡命するのでもない別の仕方、
 〈別の仕方とは別の仕方〉であるアポスターズ、
 それは〈存在しない〉という仕方、存在論を存在させないという仕方、
 つまり〈存在の革命〉によって、
 〈存在〉の〈悪〉そのものを消滅させるという別の仕方である。

 存在論はこのとき存在の美学へと錬金術的変容を遂げる。
 存在の支配=呪縛を脱するには、
 埴谷雄高-三輪与志が言うように、
 人間ならずして創造できないもの(虚体)を創造することによる
 究極的自己証明をなす以外の道はありえないのである。

 埴谷雄高の語った〈虚体〉とは〈奇蹟〉の〈創造〉である。
 しかしそれは単なる荒唐無稽な空想ではなく、
 寧ろ現実よりも現実的な不可避の真実を直撃している。

 〈虚体〉とは〈実体〉よりも強靭に現実的な問題なのである。
 〈虚体〉は或る意味において、
 不可能性の美学の根本観念である〈美的実体〉の異名である。

 存在論的実体である〈実体〉に根源的に矛盾するという
 形而上学的虚体を美学的に言い直すと、
 それはもはや存在論的ではなくなったという意味で
 実体に代わる実体となる。

 〈美的実体〉とは革命的概念となった〈物自体〉である。
 〈物自体〉は〈存在〉を唯物論的=終末論的に革命するものだからである。
 それは〈存在〉を破壊する最終兵器であり、
 まさしく〈核爆弾〉となるものである。

 この過激な〈核爆弾〉である〈美的実体〉を埴谷雄高は〈虚体〉と呼んだ。
 それはわれわれがこの手のなかで作り上げるべき真のペルソナリテート、
 全く異なった意味における真の〈神〉を意味する。
 だが、われわれはその〈神〉を信じるのではなく、
 その〈神〉を生きるのである。

 〈虚体〉を創造する〈存在の革命〉は
 最もリアルでシビアな意味において
 殆ど唯一のまぎれもなく現実的な革命思想なのである。

 〈虚体〉は如何にして可能かなどと問うべきではない。
 そのように問うなら〈虚体〉とは〈不可能なもの〉でしかありえない。
 しかし〈不可能なもの〉の裏面は〈不可避なもの〉である。
 不可能性とは最早可能性ではないものである。
 それは可能性の完全な消滅を意味する。
 それは可能性の余地のない決定的な現実性を意味する。

 〈不可能なもの〉とは〈これ以外にありえないもの〉である。
 〈~でないことの不可能性〉、
 すなわち〈無の不可能性〉によって構成された
 現実そのもの自体を意味する。

 〈無からの創造〉は〈無の不可能性〉によって根拠づけられる。
 この超越は異様であるが、この異様な超越によってのみ
 人間は真の現実的主体性を自己創造することになる。

 驚くべきことである。
 〈創造〉は〈存在〉をこのようにして
 一撃に打倒し転覆させてしまうのである。
 そして〈創造〉は〈存在〉よりも遥かに現実的なのである。
 〈美〉、それは〈存在〉よりも強いのだ。

 ところで、可能性とは何であるのか。
 可能性の中心などということは
 実はそれこそ寝言に過ぎないのではないのか。
 問題は可能性の中心を探究することにあるのではない。
 不可能性の核心を衝くことにある。

 人は夢の呪縛に永久に囚われたままの畏怖する人間であるべきではない。
 その人間は〈生きる〉ということを
 〈夢〉だと言っているに過ぎないのである。
 眠っている人間はそれこそ死んでいるも同然であって、
 そのまなざしこそ〈死滅せる眼〉なのだ。
 死者はいつまでも〈現実〉という夢をみていればよい。
 しかしそのような〈現実〉はうつろな夢であって
 真の意味で現実的なものでは断じてない。
 自分が生きているか死んでいるかも分からないような虚ろな人間に
 生と死について語る資格はない。

 ヘーゲル的な理性は眠りでしかありえないが、
 カント的な理性は夜のなかでも決して眠らない覚醒した精神である。
 このような意味で眠りびとは〈現象〉のなかに内省し遡行するが、
 永遠に〈現実そのもの自体〉には出会わない。
 それを〈外部〉へと放棄してしまっているからである。
 ここには自己批判能力というものが決定的に欠落している。
 〈意識〉とはこのような〈内閉〉である。
 〈内閉〉からこそ〈外部〉が捏造される。
  しかし〈内/外〉という弁証法的修辞学それ自体が
 非常にヘーゲル的な嫌味なものでしかない。
 カント的に言えば、そんなもの知ったことではないのである。
 問題にすらなりえない筈である。

 自己批判能力を失うとは判断停止して判断力を喪失しているからである。
 すなわち現実を喪失してしまっているからである。
 その原因は畏怖にある。
 畏怖とはよくぞ言ったものである。
 それは有り体に言って、臆病者ということである。
 臆病者のダンディズムは
 畏怖を倫理と言いくるめるみにくい詐術を作り出す。
 しかし、臆病な人間というのは
 いざとなると何もできないものなのである。
 倫理は一見おありがたいが、
 何もいざとなると救わない。ただ予言するだけである。

 この予言は預言ではない。
 預言とは自分の言ったことを引き受けて
 その通りに行動するということである。
 言を預かるとはいざとなったときに
 メシアとして振る舞うことへの覚悟性である。
 
 予言はこれとは逆で
 結局その実現に向け努力しようともせず運を天に任せる。
 だから当たったか外れたかという下らない話が
 後で生じてしまうのである。
 予言の本質は常に既に天気予報であるに過ぎない。

 わたしは一人のかぎりもなく敬愛する人の背中を思い浮かべて
 このことを述べているのである。
 その人が決してこちらを振り返らないことをわたしは知っている。
 死の影の空虚な谷間を歩む人に何を言っても空しい。言うだけ無駄である。
 袂は分かたれ、別の道は選ばれた。
 おまえは右に、わたしは左に行き、二度と決して出会うことはない。

 レヴィナスは〈存在の不快〉から
 当然帰着するところの〈自同律の不快〉の不可避性を
 埴谷雄高=三輪与志より以上に明瞭に説明し論証してくれた。
 それは彼が埴谷雄高以上に
 〈自同律の不快〉を突き詰めた思想家だったからである。
 このことのもつ重大な意味は無視してはならない。

 レヴィナスを理解できないような人間は埴谷雄高を理解できないし、
 埴谷雄高を理解できないような人間は
 レヴィナス哲学のもつその深い悲劇的な意味を
 洞察することができないからである。

 この両者の恐るべき酷似性はそれこそが本質的な重大問題なのであって、
 埴谷雄高を埴谷雄高として
 レヴィナスをレヴィナスとして
 別個独自に切り離して論じた場合のあらゆる問題を
 端的に意味のないものとしている。

 ここでは両者が相互に見知らぬ間柄の別人であることや
 影響関係が観測できないことや
 他方がフランスに亡命したリトアニア出身のユダヤ系哲学者
 他方が植民地時代の台湾出身の日本人の文学者であるといった
 住む世界や分野の違いを根拠にして
 彼らを別個の独自性として扱うことは
 単に不毛である以上に
 積極的に反動的で邪悪であると敢えて厳しく断言しておく必要がある。

 ここでは別人であるということが
 全くの無意味に帰しているということをこそみるべきである。
 不快な〈自同律〉がここに破綻してしまっていることをこそ
 みるべきである。

 それぞれの自己同一性に彼らが回帰することが不可能なほどまでに、
 自己同一性よりももっと厳然としてあるものを、
 この非人称的な実存それ自体の
 剥出しの悪夢めいた酷似性をこそ見るべきである。

 この酷似するものそれ自体は存在論的な実体ではない。
 実体とはレヴィナスにおいても埴谷雄高においても
 或る実定的存在者である自我が自己自身にぴったりと重なっているという
 自同律的=実詞(名詞)的存在者を意味する。
 つまり存在論的実体とは非実体から存在論的に実体化されたもの、
 演繹されたものなのである。
 レヴィナスはこれをイポスターズと呼んでいる。

 実体とは実体化(イポスターズ)されたもの、
 実体化の結果であるに過ぎない。
 これがつまり存在論の正体なのである。
 存在論とはイポスターズ以外の何者でもない。
 埴谷雄高もレヴィナスも存在論のこの下らぬ正体を
 冷酷なまでに見据えていたのである。
 存在論とは愚劣な問題である。
 というのはイポスターズとは愚劣以外の何者でもないからである。

 両者の真の問題とは、
 だから崇高な形而上学の側にこそ主眼があるのであって、
 愚劣な問題である存在論に対する両者の炯眼の底には
 ぞっとするほど美しい軽蔑がきらめいているのである。

 自同律と存在論は
 馬鹿者どもだけが有り難がる愚劣な思想であるに過ぎない。
 それはつまり限りもなく退屈な宗教なのである。
 理性なき人間にはこのことが分からない。
 存在論は邪悪である以前に愚劣であり、愚劣だからこそ邪悪なのだ。

 なぜなら存在論こそありとあらゆる愚劣なもの生みの親だからである。
 存在論とは世界の諸愚劣の根源である。
 何故か、存在論の精神自体が
 身元の怪しい卑しい素性のものに過ぎないからである。

 存在論、それは卑しい精神の持ち主の哲学を意味する。
 美学的に言えば、それはみにくい人間の学問である。

【関連記事】
不可能性の問題1996年試論(10)虚体〉の創造―悪夢の彼方に

【関連書籍】



著者: E. レヴィナス, Emmanuel L´evinas, 合田 正人
タイトル: 存在の彼方へ








著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈1〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈2〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 埴谷雄高全集〈3〉



著者: 埴谷 雄高
タイトル: 埴谷雄高全集〈別巻〉資料集・復刻 死霊