レヴィナス、おまえは人民に死ねというのか。
 人民の涙と苦悩に対して
 何もしようともしない怠慢な神を
 なお善なる神であると信念しろというのか。
 子供たちの胸を締め付ける救いのない怒りを踏みにじるのか。
 ユートピアなんてないんだよ、
 はやく諦めて大人におなりと説教するつもりなのか。
 それこそがアウシュヴィッツの犠牲者への裏切りである。

 復讐を唱えて立ち上がるのは
 ナチスと同じでみっともないからおやめなさいという
 おまえの御託はもう聞き飽きた。
 ふざけるな。復讐と殺人は正義だ。

 カインを怒らせ、アベルを殺させたのは神だ。
 だから神は俺が悪かったとカインに謝ったのである。
 アベルが死んだのは神の責任である。
 カインがその罪を問われてはならないからこそ
 神は保護の徴を与えたのである。
 アベルは神の身代わりに死んだのだから、罪は神にあるのである。
 本当は神がカインの怒りによって殺されねばならなかったのである。

 おまえの神ヤハウェが尊敬に値する立派な神であるのは
 自分の非を認める神、悪の原因であることを認める神、
 だからこそ彼こそが真の正義の神でありうるのだ。

 これにくらべてプラトンの乙に済ました〈善〉のイデアなど
 正義の名にも値しない卑怯なみにくい甘ったれた神性でしかありえない。
 そんなものと大いなる苦悩する悪=正義の神、
 潔く美しいヤハウェを一緒にするなど
 神の高潔な人格に対する侮蔑である。冒涜である。
 カインは血を流す怒りによって
 神にその人格を認められたのである。何故か。
 神自身が血を流す怒りと真実の神だからである。

 おまえの素晴らしい神ヤハウェから
 あの最も美しい偉大な復讐と怨恨と激怒を奪うな。
 神から正当な怒りの権利を奪うな。
 邪悪を処罰することのできるのはもっと恐ろしい悪だけなのである。
 復讐は正義である以上に聖なるものなのである。

 十戒、そんなものが何だ。
 モーセは怒りによってその馬鹿げた石板を
 一撃のもとに破砕したではないか。
 何が〈汝殺すなかれ〉であるか。
 否、怒りと怨念と復讐は神聖で美しい正義の根拠である。
 〈カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍〉こそ
 最も素晴らしい言葉なのである。

 殺せば七倍、七十七倍、七百七十七倍かもしれぬ復讐を
 覚悟せねばならないから殺してはならないのだ。

 神はカインに約束したのである。
 おまえを殺そうとするような奴は許さなくてよい。
 そんなやつは殺してしまえ、と。

 〈殺せ〉と殺人を許可し勇気づけてくれる神だからこそ
 カインは神を信じたのである。
 神はカインの生命を愛してくれていると分かったからである。

 おまえは生きろ、生きるのを邪魔する奴は殺してでも生きろ、
 父の愛とはそのようなものでなければならない。

 逆にわが子イサクをいくら神に言われたからといって、
 生贄に捧げて騙して殺そうとしたアブラハムなど人間の屑である。
 そこに父の愛など見るな。そんな奴はクソ親父だ。
 アブラハム自身そう言うに決まっている。

 逆に見なければならないのは、
 そんな非道を命令し強制してくる神という奴へのアブラハムの怒りだ。
 この怒りが凄まじいものだったからこそ、神はアブラハムを認めたのだ。
 神はその怒りが嬉しかったのだ。
 怒りの神は不正に怒る能力をもつ誇り高い人格の持ち主だけを認めるのだ。

 正義とは感情である。
 相手がたとえ神であっても絶対に永遠に許さぬとまでに
 凄まじく怒る者でなければ、どうして地上に正義を実現できるものか。

 神はアブラハムに子供の生命を神よりも愛し、
 子供のために全世界を敵に回しても戦うような
 強い父親であって欲しかったのである。

 この神は誰あろうイサクである。
 大いなる神は子供の怒りなのだ。

 ヤハウェとは美しい純粋な童心、
 決して裏切ってはいけない、
 それに対して嘘や奇麗事はまったく通用しない、
 欺かれることを憎む心だ。

 それを忘れたユダイズムなど、命の抜けた石の抜け殻である。

 おい、よく聞け、やたら律法をふりまわすトーラの威を借るキツネ憑き、
 レヴィ族のレヴィナスよ、おまえの神はヤハウェではない。
 キツネに化かされているだけのおまえは
 レヴィ族の偶像神レヴィアタン(絶対主義的国家主権)を
 拝んでいるだけである。

 おまえは海から上ってくる獣に魂を売り渡した裏切者である。
 おまえは大地からのぼってくる獣ベヒーモス
(ハイデガー存在論/ナチス第三帝国の愚民制)を
 邪道の幼稚なパガニズム(異教)と罵る。
 ふざけるな、俺はバビロンに捕囚となった
 少年預言者ダニエルの転生である。
 真の終末に立つ者である。
 俺の姓は〈奇蹟〉を起こす〈神業〉を、
 名は〈メシア=ヒーロー〉つまり〈イマヌエル〉をアナグラムするものだ。
 イマヌエルとは闘争する救世主の名である。
 俺は俺の神から授かった契約の名にかけてきさまを断固として認めない。
 預言者エリヤを信じるロシアの敬虔な虐げられし人々から
 その聖なる名を呼ぶ権利を奪い、嫌味なフランス語を振り回して
 それを邪悪なイリヤ(存在の悪)であるといい、
 崇高な売春婦であるハギア=ソフィアを、
 そして人間の健康な悦びであるドゥーニャを侮辱しようとする
 下らぬ薄汚れた涙の水たまりの化身ルージンみたいな貴様を許さない。
 律法が何だ。命のない冷えきった石の言葉でしかないではないか。
 偉そうに人間にああせいこうせいと
 つべこべ細々命令するレヴィ記なんかを振り回すな。
 神はそんなところに生きていやしないぞ。

 神とは胸に燃える預言の約束の言葉だ。
 虐げられし人々の胸に消えることのない怒りの叫びだ。
 屈辱のなかにあっても放棄してはならないプライドだ。
 誇り高い炎の心臓をもった獅子としてみにくい人間どもを
 堕落した僧侶と王族を腐った文化を憎悪してやまない怒りの他者の魂だ。

 しかし、この他者はこれこそが自己であり自我なのだ。
 おまえが宣伝する諦めと我慢でしかない
 メシア的実存など少しも良いものではない。
 暗闇の中で声も出ず脅え切ったまま身動きもできないなら
 子供は死んでしまうのだ。

 ふざけるな、そんなけなげな魂の抜け殻を、
 哀れな子供の屍骸を理想だというのか。
 おまえを殺してやる!という怒りの神の爆発、
 攻撃性の発散によってのみ、
 人は生き、子供はその死から蘇るのだ。神は復活するのだ。
 神は預言の言葉によって燃え上がる心臓の熱さとして、
 炎として人の胸に蘇り、その人を真に生ける人間にするのだ。

 〈汝殺すなかれ〉に呪縛されている子供は神の死、神の墓場である。
 律法の冷たい銘板が重い墓標となって胸にのしかかっているとき、
 子供の顔は蒼く、心は死んでいるのだ。

 トーラが神の復活を妨害している。
 レヴィナス、おまえは神を生きていない。
 神を生きていない者は神を死なせている。
 おまえは神と死のなかでしか出会わない。
 死のなかで子供と神は同一人物になっているが、
 その神=子である神の子イマヌエルの幼い心は
 おまえのなかで何故いつまでも死んだままでいなければならないのだ。

 おまえはそれは死んだという。
 しかしそれはおまえが殺しているのだ。
 おまえの倫理学は心を殺し神を殺し
 大人の哲学者=律法学者だけを生かせている。

 しかし、罪とはそのことではないのか。
 おまえの倫理学は魂の殺人の倫理学である。
 童心に死ねという倫理学である。
 童心という真の神の可能性に生きる道を塞ぐ倫理学である。

 おまえのなかで童心=神は死んではならないのに、
 また、誰もまだ殺してもいないのに、
 死の濡れ衣を殺人の濡れ衣を着せられている。

 〈汝殺すなかれ〉という前に自分自身を殺すな。
 おまえは生きろ。そのためになら他者など殺しても構わないのだ。