レヴィナスのイポスターズの美学=倫理学に対して、
 不可能性の美学のアポスターズ論を対置する前に、
 問題を予備的にはっきりさせておくために、
 わたしはヘルメス学=解釈学的見地から、
 これに厳しい文句と容赦ない罵倒を浴びせておくことにしたい。
 レヴィナスの哲学は麗しいものであることを認めるに吝かではないのだが、
 にもかかわらず、それはきわめてみにくいものでもあるのである。

 要するに、
 レヴィナスの倫理学は存在論の〈悪〉から〈善〉へと負け犬よろしく
 尻尾を巻いて逃亡するだけではないかといいたいのである。
 それでは結局、存在論の〈悪〉は放置されているだけである。

 それを根拠にして倫理学は己れを〈善〉であると
 いけしゃあしゃあと言ってのける。
 これはパリサイ的偽善者のやり方そのままである。

 倫理学は己れをこのようにして美化するが、
 何も救わない。神の子すらも救わないで、ゴルゴダの丘に行けといい、
 アラム語ならぬロシア語で
 イリヤ(預言者エリア)の名を呼んで泣き叫ぶと、
 遠くからみてヘブライ語のしゃべれぬバルバロイといって嘲り笑うのだ。
 昔どこかで見た構図とそっくり同じではないか。
 ふざけるな、と言いたい。

 倫理学者よ、おまえはとてもみにくい卑劣漢である。
 神の子の名、そして大いなる不可能性の哲学者
 カント=〈C'ant〉の名〈イマヌエル〉の名を辱めるな。
 そして〈イスラエル〉の名を辱めるな。
 屁理屈を捏ね回してあのかぎりもなくみにくい
 神なき〈シオニズム〉を演繹するな。

 おまえの〈できない〉は非常に見苦しい〈できそこない〉だ。
 それはおまえの不可能性が不完全な失敗作、
 可能性のたんなる失敗性でしかないからである。
 
 〈できそこない〉とはイポスターズ論に対する辛辣な嫌味である。
 実存から実存者を演繹した結果、
 半死半生のできそこないの餓鬼として
 レヴィナス的な自我が生まれて来ただけだからである。
 この餓鬼には生命というものがない。
 イポスターズというのは
 要するにイリヤという魔王に魂を抜かれた
 虚ろな餓鬼を生み出すためだけに
 夜の暗黒のなかに子供を全焼の犠牲に捧げるというだけの
 人格化の失敗の物語なのである。

 この実存者は自己の出来=現前化を失敗し、
 イリヤによって損傷され、いじけきった感傷の傷痕
 すなわち〈自我〉ならぬ〈怪我〉を
 やけに麗々しく〈神の痕跡〉と称して撫でさすっているという
 半人前の未熟児(ゴーレム)であって、
 己れの孤独をひそかに自慢するような嫌な歪んだ人間である。

 〈できそこない〉とは自己出来損傷性として
 論理的に無矛盾に首尾一貫した〈実存する実存者〉
 すなわち(私はある)として構成された
 〈自我=意識〉の自己同一性の内的喪失、
 つまり決定不能性というばかげた悲劇を意味する。
 これは現代版の〈自我の誤謬推理〉というべきものなのである。
 レヴィナス自身、このイポスターズのよって出来した自我が
 そのままでは孤独な駄目人間であって不完全であることを認めている。

 自我の不完全性(自己喪失)は
 しかし非人称化=超越の外傷のせいであるというより、
 その完璧に直観というものを廃棄した形式主義のせいである。

 この不完全性と不可能性は混同されてはならない。
 不可能性は寧ろ一種の完全性だからである。

 不完全性というのはあの近づいてくるだけで
 ハイデガー存在論そっくりに吐き気がするほどみにくい
 クルト・ゲーデルの不完全性定理みたいな
 決定不能性(両義性)の曖昧な混乱に帰着するものである。

 不可能性はしかし断固たる完全な決定性である。
 そこには何ら曖昧なところはない。

 決定不能性とはあの有名なエピメニデスのパラドックス
 〈ひとりのクレタ島人が『私は嘘つきだ』と言った〉という
 あの耳にタコができるほど聞かされた下らぬ落語と同じである。

 このクレタ島人の自己言及は
 要するに人を惑わすだけのミノタウロスの迷宮の罠でしかないのだ。
 この男がその下らぬ台詞のなかで
 〈嘘〉を言っているか〈真実〉を述べているか
 論理的に決定不能だからといって、
 煙に巻かれることはないのである。

 そんなものは真面目な問題ではない。
 クレタ島人はイヤミな嘘つきであるに決まっているのだ。
 〈嘘〉をつこうと〈真実〉を言おうと
 〈決定不能〉の〈曖昧〉な偽善的たわごとを言おうと、
 嘘つきはその偽善的なみにくい嘘つき性に呪縛され切っているだけである。
 こういう人間の人格の疑わしさは明瞭すぎる程明瞭である。
 抽象的なたわごとが好きなだけなのだ。

 解決はボロメアンの結び目と同様
 アレクサンダー大王のやったように一刀両断で片付くのである。

 そういう奴は殴れ。

 いつでもそれが冗談などではなくて大真面目な正解なのだ。
 殴れば自分がどんなバカな寝言を言っていたか目が覚めるというものだ。
 これがアリストテレス的=リュケイオン的な
 理性的かつ暴力革命的=創造的終末論的やりかたというものなのである。

 一撃でおめでたいプラトンをぶん殴り、
 一撃でアカデメイア的大学人のたわごとをその下らぬ迷宮ごと、
 薄汚れたベルリンの壁のようにぶち壊して、
 真実在の世界を地上に創造するのである。

 自分が地底の洞窟に入れられていると思ったら、
 出口を探してうろうろ迷うことをせず、自力で穴を掘ってはい出してこい。
 そういう場処におまえを投げ込んだ、
 お節介で意地の悪いプラトンみたいに教育熱心な
 いけすかない先公に手を引いて助け出してもらおうなんて思うな。

 そういう奴がしきりに連れていきたがる太陽の国など
 それこそ地底の空洞に捏造された
 いかがわしい空想の嘘っぱちのアトランティスに過ぎないのだと知るがいい。

 一人の王も生み出せぬプラトン=レヴィナスのしきりに宣伝する
 存在の彼方の〈善〉の天国など
 アリストテレス=アレクサンダー的精神にいわせれば
 チャンチャラおかしい話なのだ。ユートピアが欲しければ自分で造れ。

 ごちゃごちゃ抜かすだけで何もしない学者は
 殴ってでも言うことをきかせればいいのだ。
 抑圧的な抽象の横柄で権威的な〈壁〉ごときに
 人間様が惑わされ脅えてへつらうことは全くないのである。
 そんなものに立ち塞がれて身動きがとれないようでは人間の名折れである。

 こういう奴を〈できそこない〉というのである。
 嘆きの壁など有り難がるな。
 締め出しを食っていることがムカつくのならそんなもの爆破せよ。
 中に入れてくれない奴らが悪いに決まっているのだ。

 そんな奴らが二、三人爆破の巻き添えで死のうと知ったことではない。
 哀れむべきではないのだ。
 ざまあみろ、運が悪かったなと舌を出してやればいいのだ。

 いやみな抑圧者などに同情するほど
 愚かで邪悪なお人よしの暇人というのはありえないのだ。

 何が〈汝殺すなかれ〉であるというのか。
 こちらの生きる権利を脅かしてきたのはおまえではないか。
 おまえなどに俺の前で命乞いをする権利などない。
 この期に及んで殺さないでくれとは何事だ。
 殺すのはいけないことだと居直るとは何事だ。
 身の程を知るがいいのである。

 そんなみにくい哀れっぽい偽善者に同情の余地などない。
 このような瞬間に倫理学などに口を挟む余地も資格もない。
 それは真の正義の遂行を妨害するためにだけ引用される
 邪悪な言葉なのである。

 そして抑圧的で権力的な人間だけが
 いつもその邪悪な支配を美化するために
 愛だの善だの道徳だの倫理だの宗教だのを持ち出して脅すのである。

 このような偽〈善〉の形而上的倫理学は
 非人称のイリヤより以上に邪悪で脅迫的な反人間主義に
 すぐに転用される性質のものに過ぎない。

 ふざけるな。恨むべき嫌な奴は殺せばいいのである。
 さもなければ恨みというものは晴れず、増大するだけだからである。

 人間に無用な我慢と無理な諦めを強いるな。
 屈辱的な恩赦の精神を虐げられし人々に求めるな。
 野蛮なツァーリに対する革命権を取り上げるな。