レヴィナスはハイデガーに抵抗しつつ
 倫理の形而上学を構築しようと試みた注目に値する哲学者である。
 彼は存在の非人称性を〈悪〉と看破する。
 これは炯眼といわねばならない。
 しかし炯眼であるに過ぎないのもまた事実である。

 その思想の主題は存在論から倫理学への脱出として表明されている。
 『実存から実存者へ』『存在するとは別の仕方で或いは存在の彼方へ』。
 それは倫理学の提起する
 〈他者〉と〈善〉と〈神〉へのユダヤ的逃走論である。

 このユダヤ的なものはタルムード的なもの、
 つまり律法学者的なものである。
 と同時に終末論的メシア待望論に、しかも期待外れな待望に終わっている。
 
 無限(終わりなきこと)であっても、
 修辞を弄んだ言い逃れにしかなっていない。
 終わりは終わりなのだ。
 それもきわめてみすぼらしい終わり方だという他にない。

 不可能性の美学はレヴィナスのこの神曲的思考を
 それなりに麗しいものとして一定の敬意を払うが、
 『存在するのとは別の仕方』がそれしかないというのには
 大いに異論がある。
 寧ろ〈存在するのとは別の仕方〉とは
 更に異なる〈別の仕方〉が実はあるのである。

 不可能性の美学はこの〈別の仕方〉を
 〈悪〉の方へと悪魔的に接近する〈悪魔学〉として構想する。
 それは〈背教〉の思想、すなわち〈異端〉の美学の基礎づけである。

 レヴィナスの倫理学は
 結局ひとつの美学でしかない愚劣な正体を晒すことになるのだが、
 これはのちにみるように
 イポスターズの美学=修辞学というべきものに帰着する。

 わたしが既にヘーゲル=バタイユの名をあげつらって罵倒しておいた
 〈侵略=侵犯の美学〉はハイデガーの存在論にも共通する本質をもつ。
 これはエクスターズの美学=修辞学といわれるべきものである。

 レヴィナスのイポスターズの美学である倫理学は、
 ハイデガー=バタイユ=ヘーゲル的な
 エクスターズの美学である存在論に対する痛烈な批判として
 巧妙に構想されたものであるが、
 わたしはいくらかヘルメス学=解釈学的見地から
 この批判はきたない批判だと批判したいのである。

 そしてわたしは不可能性の美学を、
 エクスターズの美学(存在論)及び
 イポスターズの美学(倫理学)に対する二重否定、
 いわば二重の背教として定式化したい。
 この美学はアポスターズの美学=修辞学と
 いわれるべきものになる筈である。

 アポスターズとは〈破門〉と〈破戒〉を
 積極的に選び取る仕方でなされる主体化の別の様式である。
 それはレヴィナスのイポスターズ論
 『実存から実存者へ』への創造的裏切りとして、
 いわば〈実存者から背教者へ〉という仕方で遂行される思考の冒険である。

 ハイデガーの存在論がギリシャを持ち上げるヘレニズム、
 レヴィナスの存在論がユダヤを持ち上げるヘブライズムであるのに対し、
 不可能性の美学はエジプトを持ち上げるアレクサンドリアニズム、
 シンクレティズム、そしてグノーシス主義でありカバラである。
 この思考は自らを積極的に秘教へと背教させることを通じ、
 過激な叛逆哲学を形成する。

 不可能性の美学は神にも存在にも跪拝するものではない。
 その精神はルシファー的なものである。
 そしてエフェソスのアルテミス女神を褒めたたえるものとして、
 ピエール=クロソウスキーの精神を独自の仕方で受け継ぐものである。

 不可能性の美学は、〈存在〉と〈神〉への二重背教、
 すなわちカント的に言い直すなら二律背反の内に
 〈実存者〉を錬金術的に変容して
 〈背教者〉(アポスタータ)という
 アナーキーな主体性に人格改造するものである。
 アンチノミーとはアンチ=ノモス、すなわち反体制の精神を意味する。
 われわれはあくまでもカントに忠実なのである。

 そして敢えていえば、カント哲学の本質はゲーテと同様に〈魔法〉である。
 今日の大学ではアメリカ西海岸の多少いかれた大学を除けば、
 〈魔法〉を正規の学問として教えていないようだが、
 〈魔法〉を理解しない者どもが
 カントを何年研究したとか
 カントについて煩瑣な知識をどれだけもっているかだけをもって
 カント学者を名乗ったり哲学者を名乗ったりするのは
 滑稽を通り越して既に詐欺的犯罪にまでなっているというべきである。
 カント哲学を教える資格は国家と愚民がそれを与えているとしても
 物自体として全くないと断言してよい。

 そもそも哲学者とは本来魔法使いを意味した言葉である。
 下らぬ語学や哲学史を教えて
 学生達に無駄な時間を潰させている哲学者たちは恥を知るべきである。
 そんなものは哲学ではないし、
 学生達の将来の人生に全く役に立たない
 無用の長物であるばかりか有害なものである。
 学生達はそれ故哲学に失望し人生に失望する。
 これは哲学者どもの責任である。

〈存在〉だの〈精神〉だの〈真理〉だの〈意識〉だのといった
 抽象的な幽霊についてのもって回った怪談話をして
 お茶を濁す暇があったら、
 ゴーレムの一つ、ホムンクルスの一つでも作る実演をしてみせればよい。
 アルベルトゥス=マグス(マグヌスではない!)は
 実際にそれをやってみせた筈である。
 あなたが本当に哲学者だというのなら、
 どうかそれを見せていただきたい。

 思考、それは単なるお話である弁証法でもディスクールでもなく、
 思考=実験(ゲダンケン・エキスペリメント)以外の
 何者であってもならない筈だからである。