批判というとき常に価値を明らかにし評価を下すということこそが
 問題の中心なのだということを見失ってはならないのだが、
 カントにおいて判決は出されている。
 ありとあらゆる現象学は断固として無価値である。
 それは考えるに値しないもの、
 理性の法廷から軽蔑をもって却下された駄文であるに過ぎないのである。

 このうすぎたない紙屑をおありがたいものとして拾い、
 丁寧に皺を伸ばして似非学問をその上に建築しようとした不逞の輩がいる。
 その根拠が駄目であるから足元がいつもガタガタ揺れる程度のこと
 を危機が迫っている、学問の一大事だと大騒ぎするような愚かな輩は、
 たんに頭脳の病に冒され、精神を病んでいるに過ぎないのだが、
 自分自身が偉大な学者先生であるという誇大妄想に陥り、
 困ったことに周囲もその作り話のうまさに
 まんまと騙されるのでたちが悪いのだ。

 かくして全くの無根拠から危機意識は創造され社会現象となる。
 一緒に大騒ぎをしてくれないというので
 形而上学者は批判されなければならない羽目に陥る。
 理性が気違い扱いされるという訳だ。

 このときに二〇世紀的人間として批評家という反動的人間が、
 危機=意識なる悪霊に憑依された白痴どもが、
 目茶苦茶なイデオロギーにもとづく
 不幸きわまりない人間狩りを始めるために
 一斉に解き放たれるのである。

 彼らは口々に現下の状況における
 天下国家の一大事をわめき立てるデマゴーグである。
 大衆はそれに喝采する。
 彼らの確信的=革新的妄想から発するさまざまな時事問題
 ――それは常に最新流行の俗物文化であり、
   また危機に瀕した状況を如何にして打破するかの
   発明と発見の物語である――は、
 それを知らないことが由々しいことであるかのように
 先験的に価値づけられてしまっている。

 危機的な意識というものは常に〈現象〉に呪縛された精神を前提している。
 このような精神は必ず死人のように判断を停止している。

 フッサールをみればそのことは一目瞭然である。
 フッサールがバカであったことは有名な話である。
 彼の頭はその少年時代に鋭く研ぎ澄まそうとして、
 刃を擦り減らし使いものにならなくなったナイフのごとく
 まったく切れない役立たずのものであった。
 彼は厳密性の追及方向を根本的に誤っていたのである。

 このように自分自身を憔悴衰退させ続けてゆくだけの思考は
 少しも美しくないし、
 そのテクストもまた読むに耐えない。
 この冴えない虚しい精神のありようは悲劇的で意気阻喪させるものである。

 美学的思考にとってフッサールを始祖とする現象学派の哲学論文は
 そこから反面教師として学ぶものが実に多いという意味で
 逆説的で嫌味たっぷりな意味で知恵の宝庫であるという以外には、
 単に読むだけ時間の無駄であるに過ぎない。

 判断停止してしまった人間というのは判断力を喪失した人間、
 従って生ける直観能力を殺してしまった
 愚かで哀れむべき無能であるに過ぎない。

 危機的な意識は自らを超越論的に確保しようとする。
 超越論的態度というのは
 固定した反動的な〈現象〉に自己凍結してしまうということである。
 それはヘーゲル的な弁証法的自己洗脳の変態的態度よりも
 遥かにましで好意のもてる禁欲主義的なものであるが、
 実際は表裏一体の反動的精神でしかありえない。

 危機的な意識というものは幽霊の影に脅える余り、
 ヘーゲルだのフィヒテだのハイデガーだののように
 蛮声を張り上げて自己を他者を鼓舞して
 自分自身を精神にすなわち別の種類の幽霊へと高揚させ、
 死に急ぐために戦場に赴くか、
 さもなければフッサールがそうであるように
 臆病な神経症的自己武装の無限の悪循環の奈落へと陥って、
 結局銃後を固める陰険な言論統制体制を強化するのに加担するかが
 落ち着く先なのである。

 この危機的な意識は反動的で国防的な意識に必ず帰着する。
 これに対し、われわれは世界の終末の意識を提起する。
 超越論的態度ではなく終末論的態度を不可能性の美学は提起する。

 これはヘーゲルの目的論的態度にも厳しく敵対するものである。
 終末論的意識は鋭利に理性的である。
 そして真に厳しい判断力を自らに帯びる。
 終末論的意識とは終末論的判断力に於いて自己を保持する。

 危機的な意識は要するに危機意識であるに過ぎないのだ。
 それは来るべきものへの不安と恐怖に条件付けられている。
 不安はハイデガーによって、恐怖はレヴィナスによって
 優れた分析をなされているが、
 それを踏まえた上で、
 これらの現象学的危機意識の自己論理化の背後に
 無意識化されてしまった精神の態度にいかがわしいものが見え透く。
 両者とも美的体験である世界の終末の意識を
 憂鬱な自己の没落体験として悲劇的に描写してしまっている。

 危機意識が危機感を覚えているのは
 自分自身の半身である終末論的美意識に対してなのである。
 かくしてハイデガーとレヴィナスはそれぞれ異なった仕方ではあるのだが、
 危機に晒された自我の主体性を防衛的に定立しようとするとき、
 共通して、世界の終末の感覚を断ち切ろうとする。

 不可能性の美学は、この危機意識自体を解体するものとして
 終末論的美意識を逆に肯定的に捉え返そうとするものである。
 終末論的意識は革命的な意識である。

 反動的危機意識の現象学にとって、
 革命的な純粋理性はその存立=支配体制を転覆せんとするが故に
 過度に否定的な色合いを帯びさせられている。
 しかし、そのような危機意識を正当化しなければならない理由はないし、
 共感しなければならない義務もない。

 しかしまた二〇世紀初頭の哲学の危機意識が
 存在論的問題という形で表現され大きな影響力をもったことは
 見過ごすことのできない事実である。

 存在論的問題とは裏面的には政治的危機意識の抽象化された表現である。
 それは現実的な危機意識である。
 存在論的問題とは現実的問題である。
 その現実的危機意識とは国民国家の危機である。
 危ぶまれていたのは国家体制である。
 国家を危うくするものとは何か、
 それは共産主義であり、
 或いはファシズムであり、
 アメリカニズムである。
 しかし最も彼らが恐れていたものは自国の大衆の不満である。

 危機は民主主義からやってくる。
 それは国家の転覆、クーデタや革命への恐怖である。
 反体制的なもの、過激なもの、
 一番彼らが恐ろしくて脅え切っていた
 〈世界の終末〉をもたらす得体の知れないニヒルな〈存在〉とは
 無名のざわめく大衆たちの現前でありその一斉蜂起である。
 それはアナーキズムの悪夢である。
 
 アナーキズムとは崇高な理想主義である。
 それは眼前の現実(表象)を転覆し、
 ユートピアを地上に実現しようとする
 性急な終末論的メシアニズムの情熱である。
 それは若々しい自信に満ちた激しい力である。
 存在論はそれにニヒリズムという侮蔑的名称を与え、
 これを抑圧的に超克しようとした思想である。
 しかし、アナーキズムはニヒリズムではない。
 それは美しい思想なのである。
 美しく、人を酔わせる力があるからこそ
 世界中で忌み嫌われてきたのである。

 美の思想であるアナーキズムは愛の思想である。
 そして偽りを憎み、悪に心から怒る人々の大群である。
 アナーキズムは生命を愛する。
 そしてすべての統制と管理を嫌い、
 自律的に自由・平等・友愛の直接性に
 現実社会を奪い返そうとする感情の激発である。

 不可能性の美学は〈存在の革命〉という
 埴谷雄高の提起した批判的な観念の真の意味をここに了解する。
 この偉大な思想は不可能性の美学の根本命題となる。

 埴谷雄高とモーリス・ブランショは
 不可能性の美学にとって忘れることのできない偉大な先駆者である。
 この両者の提起した不可能性の文学のなかに、
 われわれは哲学的-現象学的存在論に対する
 最もラディカルな批判を見いだす。
 哲学の精神が見失った純粋理性の精神の正統な継承者は
 この二人のカント的文学者であった。
 それは逆に哲学の真にありうべき美しい姿が
 何でなければならないかをわれわれに教えている。

 真の哲学者とは美学者つまり文学者のことである。
 真の哲学者とは、その第一哲学を
 存在論(ハイデガー)にも倫理学(レヴィナス)にも置かず、
 批判的な美学をもってその第一哲学とする。
 カントとシェリングの精神にわれわれは帰るべきなのである。
 しかし、ヘーゲルが、そしてフッサールが〈学問〉化することで
 〈大学〉の内に閉ざされてしまった今日の哲学には
 そんなことは不可能である。