Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 4-11 虚妄の生命

 《シャイロック法》は、一つの死体のもとに一つの人格=記憶が対応するために、自己同一権を死者に所属するものとし、複製人間には、死者と同一であることを――即ち存在することを認めない旨をその最初の条文に掲げていた。
 自己同一性は死者に於いて完結し完了するからには、本来的に死者にこそ帰属するとされ、現在生きている者は、やがてその死者に一致するという予定のもとで、この未来の死者から自己同一性を借り受けているに過ぎない。
 《私》とは死者の占有物であり、この本来的所有者との肉体における通時的連続性に於いてのみ、生者は《私》自身であり得るのである。
 生者の自己同一性は、未来の死者との同一性を意味し、決して自分の現在を起点にすることはできないとされた。

 墓場から揺籠を引き出すような論法である。
 そこで『自己同一権』とか『死ぬ権利』というのは、畢竟するに『死者の人権』であり、生者にとってはその裏返しの『義務』を意味しているのだった。

 ところが《電子亡霊〔ゾンビスペクター〕》という新しい事態に於いては、この『死者の人権』すなわち『死体の人権』と『幽霊の人権』が分離したまま衝突齟齬していた。

 サイコマトリクスがシミュレーションの為にコンピュータにロードされれば、そこには確かに人格を持ち、まだ生きているといえるし、生きていないとかおまえは偽者だとか言っても納得することのできない同情に値する存在が現出してしまう。

 《シャイロック法》の弱点は、それが『クローン人間の人権』などという歯切れの悪い根拠を持ち出さざるを得ないことからも分かるように、実は雲をつかむようではありながらそれなりの法制定の精神を明確に示している『死ぬ権利』『自己同一権』『死者の人権』というより正直な根拠を強く前面に出して謳っていないところにあった。
 残念ながらそれは当時の人々にとって余りに理解しがたい抽象論で、人体解剖の現象的な残酷さを訴えるのに比べて説得効果に欠けると判断されたためだろう。
 また同時に《シャイロック法》は、『人格』というものを『細胞』の遺伝情報としてしか規定することができなかった。
 肉体に宿らずに機能することのできる『人格』などという予想だにしなかった準-人間的存在――寧ろ《新しい人間の存在様式》を前にしてはどうにもならなかった。
 死者が、このように二重の形態をとってくることを《シャイロック法》は予測していなかったのである。

 《シャイロック法》制定・施行当時の後盾には、当時世界最大の圧力団体であったキリスト・イスラム宗教会議の隠然たる影響力があった。

 《最後の審判のときに復活する死者が、生前の肉体を纏って甦る際に、同一人物である多くの霊魂が存在するという危険な可能性がある。これは神の大いなる経倫に対する由々しき破壊工作以外の何物でもない》と当時のローマ法皇は演説している。

 『霊魂の実在』というより大胆に雲をつかむような仮定こそ、ブラウニングJrたちの歯切れの悪い『死者の自己同一権』のあやふやさに充実した具体性を与えることができただろう。
 これなくしては、《シャイロック法》による『死者の復活禁止』条項は真の意味を持ち得ない。

 霊魂への敬虔さは、確かに全人類に抜き難く存在していた。
 肉体の死滅ののち、姿なき霊魂が草場の蔭から、自分そっくりの別の存在が、肉体を纏い、自分に成り代わって生き、誰もそれが彼であると信じて疑わない光景を見たらどんな気持ちになるだろう。
 生者と死者の世界の恐るべき断絶――それを望むのかというローマ法皇の恫喝に抗弁するような冷酷な神経は当時の無神論者ですら持ち合わせていなかった。
 だからこそ、《シャイロック法》を後援するキリスト・イスラム宗教会議の口車に当時の人々は乗ったのだった。

 けれども《電子亡霊〔ゾンビスペクター〕》とは、今まさに実在する霊魂以外の何であろうか?

 彼らは、肉体を持つことを禁止されながら、それでも、考え、喋り、生者と交渉を現に持ち、人間として存在することをやめない意識なのだ。

 論理的にはクローンと変わらない存在でありながら、霊魂贔屓の人々の同情がこのゾンビの上に集まりつつあった。
 まだ『死者の復活禁止』条項反対の声にまでは高まっていないが、ゾンビに於ける人権問題は、別の側面から《シャイロック法》体制を揺さぶっていた。

 復活を待つ死者たち――《死ぬ》ことを体験していないにも拘わらず、《死んだ》状態を甘受せざるを得なくされている精神たちは、あるのかないのか分からない彼岸の《霊魂》よりも確かに遥かにリアリティのある霊魂的存在なのだ。
 そして彼らの境遇は、誰が見ても、曾てのローマ法皇が演説で訴えた《霊魂》と同じくらい不幸であると見えた。

 けれども、実際問題、ゾンビたちを仮にクローン体に移植するとしても、オリジナルの人間の死の場合と同じ『不連続性』の問題が論理的には発生する筈である。

 そこにはやはり断じて『復活』も『受肉』もありえず、ただ『複製』が起こるだけの話なのだ。

 サイコマトリクスを収めた《霊壷〔カノープス〕》の電子光盤が破棄も消去もされず、《電子霊》のクローン転生後に再度《超霊媒システム》上に解凍される場合を考えてみればいい。
 そこで《電子霊》は永久に《電子霊》として電子光盤から出られず、自分そっくりの別人が自分に成り済まし、しかも肉体を纏ってにやにや笑っている姿に出会い、己れの境遇に絶望するに違いないのだ。
 ゾンビは所詮永久にゾンビのままなのである。

 その筈なのにゾンビたちはそんなことに納得できはしなかった。
 彼らの内的体験は、これまでに何度も電灯のように点けたり消したりによってその存在を時間的に寸断されているにも拘わらず、一度も《死》を――自分自身の暗黒の中断を知らず、ただ連続性によってのみできあがっていたからである。

 オリジナル生前の《電子生霊〔ドッペルゲンガー〕》の場合に、記憶の更新登録をその出現最中に受けるときでさえ、いちどきの厖大な情報の流入に異常に圧縮された時間体験が見られるのではないかと推察されたが、実験の結果、そのようなこともまたないということが分かっている。
 せいぜい《電子霊》は、ついさっきまで人間であった連続的で厖大な記憶を巨大な中核とし、その表面に《電子霊》として人間と交信していた時の微量の付属記憶を付着させている程度で、どちらかといえば自分を《電子霊》よりは《人間》としてアイデンティファイする傾向があった。

 オリジナル生前に《電子霊》が己れの境遇にあまり文句を言わないというのも、実はこのためである。つまり、絶えず《人間》として生活していた時間の記憶が新たに補給されているお陰で、《人間》であるという満足を実感していられるからなのだった。

 ゾンビへの肉体授与など愚劣な瞞着に過ぎない。
 そこには別の個体の不連続的な誕生があるだけである。

 だが、ゾンビも人々もそのことを否認し、意識ある死者には甦る権利があるのではないかなどと不平を鳴らし始めていた。

 このとき、《シャイロック法》を槍玉に上げる者のなかには、曾てそれを強力にバックアップした筈のローマ法皇庁やカリフも含まれていた。

 彼らはすべての甘口のヒューマニズムが終始一貫せぬ尻軽な日和見主義であるという法則に従うように、《電子霊》という新しい哀れな弱者を発見すると、いとも易々と《シャイロック法》排斥論に鞍替えしたのである。

 こうして《シャイロック法》は既にその強力な支持基盤を失ってしまっていたのだが、それでもその体制は頑として揺るぎなく、地球・月・火星を監視し続け、一切の《死者の復活》を禁止しているのだった。