Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 4-9 電子の霊界と死の商人

 《シャイロック法》によるクローニングの禁止は、人間の細胞に関する限りのものに過ぎず、《電子霊》のような精神のクローンに対しては何の防壘にもなりえなかった。

 第四次世界大戦時、出征する兵士たちの間で自分の意識の複製を超高密度電子光盤に転写し、家族に渡しておくということが大流行した。
 当然、戦後のクローン転生に儚い期待をかけての行為であったが、戦争が終わっても《シャイロック法》が当然、転生先の肉体を差し押さえているため、大量の《電子霊》がデータの中有〔バルドゥ〕のなかに眠ったまま滞留する羽目になった。
 彼らの多くは諦めた遺族たちの手によって、遺体の入った棺の脇に、霊壷〔カノープス〕と呼ばれる頑丈な防磁性タイムカプセルに入れられて副葬された。
 だが、一部のものは既に終戦直後から一部の宗教団体が始めた霊壷〔カノープス〕専用の墓地――だが既にもう墓地とは言いがたい、霊魂の銀行とでもいいたいような施設の近代的なビルの金庫のような場処に厳重に保管されることになった。

 この施設を《降霊館〔エリュシオン〕》と呼び、そのなかの個々の保管場所を《霊蔵庫〔アルシーヴ〕》と呼ぶ。
 やがてこの風習は世間一般に普及し、死期の迫った人からサイコマトリクスを取るための特製の《兜》とサイコマトリクスエンコーダのついた高価な《パラダイスシステム》が大病院に設置され、また、葬儀屋産業の最大の収入源にまでなることになった。

 《降霊館》がその名で呼ばれるようになったのは比較的近年の事に属する。
 それ以前は《霊倉庫》とか《カノプスセンター》とか呼ばれ方はまちまちだったのであるが、それが一斉に《降霊館》と呼び変えられるようになったのは、この産業の画期的ともいえるその事業内容の変化によるものだった。

 既にファントム事業でそこそこの成功を収めていた阿礼父社は、ファントム事業の宗教界への進出に先立ち、葬儀屋とこの新しい霊園産業というやや世俗に属する周辺部からの切崩しに入った。

 まさに《死の商人》として振舞ったのである。

 元々宗教界の掌中の玉であった死者の魂を人質に取ることで頑固な宗教家の連中に揺さぶりをかけるという恐るべき悪魔的な企業戦略の王手がかけられた。

 つまり、まさに眠れる霊を起こして見せること、電子の交霊術の演出である。
 《超霊媒〔ハイパーメディウム〕》システムによるこの《死者の復活》のシミュレーションサービスは、クローン肉体を与えられない死者のサイコマトリクスに仮初の光の肉体と、生前の声紋を元に作られたボイスシンセサイザーの声を与え、《電子霊〔スペクター〕》をデータの中有〔バルドゥ〕から召還して見せたのである。
 その仕組みは後のファントムシステムをコンパクトにしたようなもので、遺族との交信記録がその都度更新されて電子光盤に追記され、死亡時のサイコマトリクスが解凍される度に、別途呼び出されて、シミュレーション上で合成されるというものだった。無論、この死後の生活のデータを収めた電子光盤は、サイコマトリクスを収めた《霊壷〔カノープス〕》の中身とは区別されてはいたが、おまけとして一緒に《霊蔵庫〔アルシーヴ〕》に保管されるようになったのである。

 降霊館に於けるこうした偽りの霊界の創造と管理は、遺族の感情の弱い処をくすぐり、宗教関係者の痛い処を衝いた。

 阿礼父社は《電子霊》を、飽くまでも生きている遺族の甘い夢〔ファンタズム〕であるに過ぎないとし、霊魂とは区別して《幻体〔ファントム〕》と呼んで、その聖性を否定、巧みに宗教界からの批判をかわした。
 こう出られては宗教関係者の側からはぐうの音も出なかった。

 虚妄とは知りながら、遺族は墓参りよりも結局頻繁に降霊館に出掛けてゆく。
 人情のなせる業である。誰にも止める権利などなかった。

 阿礼父社は、降霊館と組んで、その暗黙の無神論を最も魅力的で敬虔な宗教の創造と何ら変わらないものにしてしまった。
 しかもそれは《宗教》ではなく《商品》であり《サービス》であるとして己れを正当化し、責任を客にうまくなすり付けていた。

 宗教界全体が《電子霊》という《幻体》の威力を見せつけられ、おののいていた矢先、阿礼父社は一斉にファントムシステムの提案〔プレゼンテーション〕を持った使い魔〔セールスマン〕をありとあらゆる宗教団体に放った。

 こうして聖なる人々の多くは、資本主義の悪魔〔メフィストフェレス〕の差し出す呪わしい、しかし非常にビジネスライクな契約書に震える手でサインする羽目に陥った。
 信者の霊魂を人質に取られ、奪い返そうとして己れの魂を――彼らの偉大な崇拝対象を売ったのである。

 こうして阿礼父社は、そのコンピュータの詐術によって、霊界のみならず神界をすらも資本主義者の合法的手段に訴えてまんまと買い取ってしまった。
 外の企業はどこもそんなあざといことには手を出さなかったのですっかり阿礼父に出し抜かれた格好になった。
 阿礼父社は世界唯一の宗教システムの独占企業体として未曾有の大成功を収め、僅か数年で世界有数の一流企業へとのし上がった。
 独占禁止法は既に有名無実化しており、この急成長した大成金の新財閥には誰も手が出せなかった。

 阿礼父社には色々な黒い噂が付き纏っている。
 真壁前江戸市長との間の贈収賄疑惑や、表には出されないが陰でどうやら三つくらいの家に仕切られ支配された覆面同族会社なのではないかとか、チャイニーズマフィアとの繋がりとか、既にアメリカ合衆国の衰退と分裂によって廃れ滅んだといわれているフリーメイソンが背後に生き延びているとか、いや、新手のもっと悪魔的な秘密結社が手を貸しているのだとか様々である。
 しかし誰もその黒い霧を晴らそうと調査に挑む者はいなかった。

 無論、こういった噂は他の大企業においても珍しいものではない。
 彼ら私兵に守られた経済の城塞に巣喰う新しい貴族たちの頂点に立つという謎の階級の内幕には誰も、そして無論既にその傀儡に成り下がったどんな国家権力にも、もはや恐ろしくて立ち入れないのだ。

 まことに触らぬ神に崇りなしである。