ヘーゲル=バタイユ的な美学の精神は常に反動的なものである。
 この反動性はしばしば無節操な新しもの好きの進歩主義となって現れる。

 進歩主義者は常に文化=流行を礼賛する品性の卑しいネオフィリアであるが、
 その本質は退屈しきったシニカルなニヒリストであるに過ぎない。

 彼らの精神は混迷している。
 混迷しているのは彼らの精神が理性を、
 つまり理性の純粋性で常にあるところの
 純粋理性の精神を失った根源的なバカだからである。
 混迷を己れの根源性としてもつような人間は
 常にその混迷から根源的に脱却しようともせず、
 却ってその混迷から出発して己れの目前に様々な問題の幻影を思い描く。
 この幻影が〈現象〉といわれる。

 〈現象〉とは常に既に反動的なものである。
 〈現象〉は不可能性を覆う。

 これに対し、不可能性の美学は、〈現象〉に対し常に批判的である。
 しかしこの批判は、危機的=批評的(クリティカル)という
 意味で批判的なのではない。
 カントが純粋理性批判というときに
 意味していたような意味において批判的なのである。
  それは〈現象〉と〈物自体〉という一見すると分割不可能なまでに
 同一化されきっている事象の一体性を認識論的に分割することを意味する。
 認識論的切断のナイフを振るうことができるのは純粋理性だけである。

 この認識論的切断は、現象学的還元のようなものと同じにされてはならない。
 その目指すところが違うのである。
 カントは崇高な形而上学を目指し、すなわち〈物自体〉を目指した。
 そのとき〈現象〉の呪縛が
 不自由な邪魔臭いものであるから切り捨てたのである。
 それはあらゆる現象学に対する怜悧で決然とした否定と決別の態度である。
 純粋理性批判とは形而上学批判ではなく現象学批判を意味する。
 現象学の確立が純粋理性批判の目的なのではなく、
 形而上学の確立が目的なのである。

 純粋理性はその自己批判を通して
 自己自身の主体性を批判的純粋理性として磨きをかけ、
 まさしく純粋な理性の名にふさわしい美しい透明なものとする。
 純粋透明であるが、その主体性は堅固に混りけなく
 怜悧に結晶しているのを見なければいけない。
 純粋理性とは水晶球のように美しい透明で確固とした完成した心である。
 つまりこれが〈物自体〉として発見された純粋理性の自己自身である。

 実はヘーゲルはこのことをよく知っていた。
 水晶球的なこの麗しい理性精神のことを
 彼は純粋精神と呼んでいたはずである。
 そしてこの純粋精神が絶対精神であることも彼は気づいていた筈である。
 しかし魔法の水晶のなかにはさまざまな驚くべき映像が映し出される。
 これを精神の現象というのだ。

 精神の現象に目を奪われるとき、水晶の純粋性はみえなくなってしまう。
 分別がなくなるとき、認識は人を見捨てる。
 形而上学の水晶は不可視となり、
 それは昔日の美しい夢に変えられてしまう。
 人は水晶の実体を忘却して現象についてしか話ができなくなる。
 これでは元の木阿弥である。
 〈物自体〉なき〈精神現象学〉とは〈幽霊出現学〉でしかありえない。
 批判能力すなわち認識能力の実体である直観力を失った人には
 それが分からない。

 このような魂の抜け殻となった人間を〈大人〉という。
 〈大人〉は子供におまえには分別(理性)がないと言って叱り、
 いろいろと教育熱心である。
 しかし、そのような〈大人〉の方こそ分別(理性)を失っている。

 たまたま先に生まれたというだけで
 自分はおまえより何でもよく知っていると思い上がる。
 そしてわたしを〈先生〉と呼んで
 分からない(認識できない)ことがあったら
 何でもわたしに質問しなさい、
 わたしがおまえに代わってそれに答えを出すことができるから、
 それをおまえに教えてやる、だからおまえは何も考えるなと
 ご親切で愛に満ちた侮蔑的な命令と脅迫を子供に行う。

 しかし、そのような人間こそ分別(理性)をなくしているのである。
 認識能力が欠けているのである。
 〈大人〉には子供を教育する権利などないのである。

 子供には〈大人〉を理想視(見習い)して
 それを模倣=学習して空虚で愚劣な知能の廃人に、
 そんなみにくい人間にならなければならない義務などないのである。

 人間は実体をもって生きるべきであって、
 生きているつもりで中身というもののない
 浮ついた幽霊などに改造されるいわれはない。

 子供には自分で思考し、独りで価値判断し、
 分別をつける能力というものがある。
 純粋理性は子供のなかに厳に生きてきらめいている。
 それはその子供の命そのものである。

 その美しいものにおまえは生きるなという権利など誰にもないのだ。
 子供の自我の尊厳、理性の尊厳、
 自由な人格の尊厳、生命と真の精神の偉大さを、
 その美しい発露を、侮蔑し妨害し改造しようとする大人は人類の敵である。
 邪悪な人間である。そのような人間は死ぬべきである。
 殺されるべきである。バカは死ななければ直らないからである。
 そして既に死んでいるも同然だからである。
 生きている人間が死者などに従属しなければならぬいわれはどこにもない。

 ところが公然とそれが至るところでなされている。
 死者が生者を支配して犠牲を強いる、これは〈宗教〉である。
 純粋理性が見失われたところではどこでも
 〈宗教〉だけがはびこるのである。