さて、繰り返し前に舞い戻る。戻り舞う言葉が再び告げる――

  カントの物自体の概念を〈美的実体〉として捉え返すことを通じて、
  不可能性の美学は自らを批判的な美学として考究する。
  不可能性の美学は〈イマヌエル=カント〉的美学である。
  しかしそれは歴史的過去の個人としてのカントを意味するのではなく、
  カントのこの名が暗号する不思議な意味合いにおいて読まれねばならない。

 イマエヌエル・カントの名前の後半部分についての
 黙示録的解析は過ぎ越された。
 それは、Can't(出来ない)という不可能性を意味し、しかしまた
 出来ない事が出来る、出来するという奇蹟の様相が
 そのおもてを掠めるのをわれわれは視た。

 ではイマヌエル・カントの名前の前半部分、イマヌエルとは何か。
 これは旧約聖書に預言されたメシアの名前である。
 〈人の子〉とも呼ばれる〈神の子〉のことである。
 イマヌエルは世界の終末に出現して
 ユダヤ民族を邪悪な圧政から解放するべく立ち上がる闘争する救世主である。
 その名前はヘブライ語で〈神はわれらと共にいます〉を意味する。

 イマヌエルという不思議な名前が暗示するのは〈メシア的終末論〉である。
 この預言と暗合の問題は不可能性の美学にとって根深く本質的なものである。

 不可能性の美学は、〈イマヌエルは出来ない〉の美学である。
 それは終末論を不可能性として完成するものである。

 〈美的実体〉、それは不可能なものである。
 しかし、この不可能性は積極的なもの、肯定的なもの、悦ばしきものである。
 それは新しい思考の拠点として肯定的に捉え返されなければならない。
 この拠点は、将来予想されるヘーゲル的美学の盛り返しに対しての
 抵抗の拠点となる筈である。

 不可能性は何ら乗り越えられるべき否定的-絶望的なものではなく、
 それが表象不可能なものであるが故に
 人間の真の自由の根拠となりうるものである。
 不可能性はむしろ麗しいもの、神性不可侵なものとして
 その尊厳を認められなければならない。
 この尊厳はやがて人格と生命の尊厳にその実質を生育させてゆく筈である。

 不可能性の美学は有限性の美学の発展解消形態として
 構想されなければならない。
 不可能性を有限性として見誤るとき、
 〈限界〉という疑似問題が提起され、
 そこから有限性を超越ないし超克しなければならないという
 無用の格率が幻想されてしまう。

 このとき不可能性を〈救済〉するという誤った発想のもとに
 おめでたいというよりも既に邪悪なものである
 奇妙な無限性の概念が構想されてしまう。

 これは思想の頽廃である。
 ヘーゲル的美学は無限性の美学であるといってよいが、
 その精神はきわめてみにくいというべきである。

 われわれは不可能性の美学によって
 理性の概念を内的に位相転換する必要があるのだが、
 敢えて先取りして言えば、この新たに確立しなおされた理性は、
 それ自体、全く異なる別の〈精神〉として、
 不可能性というエデンの園の純潔性=処女性を、
 あらゆる強姦的=視姦的な〈知〉の下劣な欲情から、
 薄汚い〈精神〉の限りもなく醜悪な勃起から、
 ヘーゲル的な〈侵略の美学〉から防衛するケルビムとなるべきものである。

 この〈理性〉は騎士の精神として、
 ヘーゲル=バタイユ的な猥褻な無頼漢の横暴な精神、
 覗き趣味の精神、徴兵され調教された戦争的=強姦魔的な精神に
 対立するものである。

 高潔な貴族的精神と下劣な奴隷的精神の断固たる差別は
 その〈理性〉の有無によって決定されなければならない。

 精神の態度のこの区別によってわたしが提起したいのは別の価値観である。
 わたしは〈侵略=侵犯の美学〉の根底にある精神の汚さ、
 根性の悪さを問題にしたいのである。

 ヘーゲルが創造した〈精神〉、それはきたないものである。
 きたなくうすよごれしたものである。
 
 従って不可能性の美学は、
 このきたない精神のきたなさを理性的に問題提起し、
 彼らにその恥ずべき恥を知らせ、
 二度と決してその薄汚い墓場から出て来られないように、
 この淫らな厚かましい霊どもを
 美しかるべき世界から永遠に追放しようとするものである。

 下品な人間に美を語る資格はない。
 否、それどころかインキュバス(夢魔)に魅いられたまま
 不逞な精神で美女を誘惑し籠絡しようとする甘い言葉の
 甘ったれたドン・ファンどもには地獄行きのみがふさわしい。

 女の敵であるような嫌な奴にはそもそも生きる資格すらないのである。