〈運命〉もまた後期ハイデガー哲学の重要概念である。
 ハイデガーは〈運命〉という言葉で、
 存在するという出来事の自分自身への到来を
 不思議な贈物として存在者が引き受け、受容するとき、
 存在者にとって、
 自分自身の存在という問題は、
 〈わたしは存在するのが運命だったのだ〉という
 喜びにみちた確信として答えがでるという
 幸福な事態を意味しようとしている。
 これが〈存在〉の〈応答〉というものなのである。

 この宗教的な解決の仕方は非常に美しい。
 そこには肯定的で純朴な、
 〈存在する〉という素晴らしい不思議な出来事への感動的な応対がある。

 〈わたしが存在する〉、それは素敵なことだ。
 うん、その通りだね、とわたしは頷き、
 この感動的な事実を発見して目がきらきらとしている
 小さな男の子に戻ったハイデガー坊やの頭を撫でる。
 
 だがそれこそが奇蹟である。
 これがあの『存在と時間』のハイデガーとは
 同一人物とはとても思えないのだ。
 〈死〉への先駆的覚悟性を〈無〉の不安を
 〈終わりへの存在〉としての現存在=人間の
 思い詰めた暗い実存の横顔を語って、
 ハーゲンクロイツの不吉な徴を
 暗いかがやく瞳を見開いて凝視(Augenblick)していた
 あの蒼ざめた男の面影はきれいさっぱり拭いうせている。
 それは、まるで〈別人〉のようである。

 〈別人〉はこのように奇蹟とも見違えるような人格の変貌となって現れるとき、
 胸を撃ち、感動させ、躊躇させ、戸惑わせ、その不思議へと目を奪う。

 〈別人〉は多くの場合、錯視によって人を欺く悪魔である。
 それは、人から現実を奪い、そして〈他者〉を見失わせる出来事である。
 しかし、このように人は魔法で好意的な〈別人〉を
 小さな妖精として作り出すこともできる。
 ユーモアの魔法の力、メールヒェンの作り出す〈別人〉と
 アイロニーの妖術の力、
 〈意識〉という名の〈残酷な神〉の作り出す悪霊的な〈別人〉と
 二つに異なる〈別人〉それ自身の異貌を
 巧みに見分けることもまた必要なのである。