ところで少し話は戻るが、
 わたしの行った〈翻訳〉という
 辞書的=参照的な一瞥の盗賊的な掠め取り、
 瞬間=視線(Augenblick)による略奪=搾取
 ないし拉致=誘拐的な頭脳の回転は、
 いつでもそれ自体として考察に値する本質的に重要な問題である。

 頭脳と同時に地球儀を回し、
 見慣れぬ奇妙な異国の語と
 驚異にみちたきらきらとする出会いをするということ。
 これがそれ自体〈奇蹟〉的な出来事であることに
 注目してもらいたいのである。

 出会いとはいつでも奇妙なものだ。
 そこから恋愛は始まり、また思考も始まる。

 〈奇妙な出会い〉、
 この一見単純なことばを是非頭の片隅に留めておいてもらいたい。
 ここに重要な(即ち輸入的important)な問題があるからだ。

 わたしのこの〈翻訳〉への注目の仕方が
 妙にデリダ風であるというのが変な風に気になる
 という方もいるかもしれない。
 確かにデリダのテクストは機知と巧みに満ちていて、
 知的なことがらに目がなくなっているような人には
 いつでもそれはきっとデリダですね違いますかというような
 全てをぶち壊しにするような下らぬ質問をさせたがるものである。
 そういうやたらと空しい比較参照と博覧強記だけに長けた
 それ以外に思考能力というものの働かない無作法な
 白痴の〈仏教徒〉は即刻読むのをやめていただきだい。

 ジャック・デリダだかシャックリ・デタだか、
 ジャック・ラカンだかアッケ・ラカンだか知らないが
 そういう天に昇るためのマメの種を捜し回る
 狩猟採集経済時代の猿人は
 極楽浄土の雲上人になることを夢見て
 永久に古本漁りをしていればいいのだ。
 おまえには本しか見えず、人間が見えない。
 人間がみんな同じ仏様にしか見えない仏教徒、
 思想のおフランス症候群患者は、
 尊厳あるべき神聖な人名を冒涜して、
 ブランドに変えることばかりしている。
 ブランド服でしか人を判断しない白痴は
 そのやたらに買い漁ったブランド服を
 着こなすだけのセンスすらもないくせに、
 やたらとうるさく見苦しいだけである。
 ファッションセンスの悪い猿には
 馬子にも衣装という言葉の
 恐ろしい裏の意味すら見て取ることができない。
 このような白痴には是非共フランス現代思想などよりも
 遥かに叡智にみちたアンデルセン童話
 (特に『皇帝の新しい衣装』/いわゆる『裸の王様』)
 を読んでから出直してこいと命令する。

 幼年時代によい童話を読んだこともないような我殺な人間には
 永久に真の知識や教養というものは身につかない。
 その品性の卑しい素性は立ち所に化けの皮が剥がれるものだ。
 顔を見ればすぐに分かる。
 人相の悪い人間は必ずその心が卑しくねじけていて
 頭も悪いと相場が決まっている。
 成金や俗物の永遠に救いがたい目付きの悪い醜さは
 衣服や化粧や美容整形では消えない。
 そういう人間は信用されない。
 そもそも美学の何たるかを解しない。
 崇高の精神を欠乏したこのような亡者に
 死の宣告をもたらすのが美学者である。
 
 殺されたくなかったらとっとと消えろ。
 ジャック・デリダだと? 
 ふざけるな。そんな奴は知らん。

 無礼な人違いもはなはだしい話である。
 俺様は〈神澤昌宏〉という立派な名前をもった偉大な人間である。
 デリダなどというどこの馬の骨とも知れぬ
 そんなふざけた名前の奴は知らん。
 デリダって誰だ? 
 そんな奴と見間違えるというのはおまえの目が節穴だからである。

 しかし、これは〈他人の空似〉という
 やはり不思議なそしてより重大な出来事の話である。
 〈他人の空似〉はこれもまた〈奇妙な出会い〉の一種である。

 〈奇妙な出会い〉が起こるとき、
 人は〈運命〉の不思議な巡り合わせを感じるものである。
 或いは〈神〉の見えざる手の計らいを感じる人もいる。
 また逆に〈悪魔〉のぶきみな企みにみちた悪戯を感じる人もいる。
 どこかしら〈魔法〉めいたこの〈偶然の一致〉を聖なるものとするとき、
 恋人は互いに二度と決して離れぬことを誓うために
 〈結婚〉という契約の儀式を行う。

 《神が一つにしたものを誰も引き離すことはできない》
 という牧師や神父の言葉は、
 恋愛結婚する男女を結婚指輪の交換などよりも
 強く厳しく不可逆的に結び付けるものである。
 結婚は恋愛が成就する錬金術的瞬間である。
 甘美で世俗的な恋愛がこの瞬間、
 厳粛で神聖な結婚という出来事となって結実するとき、
 そこでは奇蹟が起こっている。
 〈神〉が誕生するのはこのときである。
 
 〈運命〉の不思議な〈巡り合わせ〉は
 確かに人間の認識能力を超える事態の出来である。
 この奇妙な出来事(Ereigis)は〈運命〉(Geschick)と呼ばれる。