Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 4-3 昨日への恐怖

 エックハルトは続けた。
「きみはぼくたちの記事を書き、
 ぼくたちのことを世の人々に知らせようとする。
 きみは善意で一杯かもしれない。
 だが、きみは自分が本当は何をしているのかを知らない。

 子供への愛情で一杯の父親は、
 鬱病に罹った哀れな息子を助けたい一心で、
 どうした、頑張れと肩を叩き、頻りに話しかけて励ます。
 だが、その愛情が、却ってその子を追い詰め、自殺させる。

 ぼくたちはいい。
 このことを始めたときから、もう死は覚悟している。
 きみはいつか僕を殺すことになるだろう。
 いや、もう今、殺してしまっているのだ。
 いつかぼくは野良犬のように殺されるだろう。
 きみもまたその無残な屍を用意しているのだ」

 「そんな……」

 「いいかい、百目鬼」
 エックハルトは真剣な目つきだった。
 「偉大なるミシェル・フーコーは、
 雑誌に特集を組まれることはその思想家が葬られるときだと言った。
 この言葉をよく覚えておきたまえ。
 ぼくはきみのことを人非人だと思っているんじゃない。
 誤解しないで欲しい。
 メディアが何物であるかを言っているだけなんだ。
 それは《知る権利》に応える。
 だが《知》は権力だ。
 ぼくはきみの国の思想家ユタカ・ハニヤを読んだことがある。
 彼は言っている。権力とは死を与える力である、と。
 ぼくたちは自分たちのしていることは自殺行為だと知っている。
 「自殺」とは人間が知の権力、
 この世界に蔓延している
 メディアというプルトニウムの粒子に対してなしうる唯一の抵抗行為だ。
 殺される前に自殺すること、
 そのことだけのためにぼくたちは歌う。
 ぼくたちは勝利のために歌っているのではない。
 ぼくたちの敗北のために、
 そしてぼくたちの死が、
 他の見知らぬ人の死の身代わりになることを願って歌う。
 ぼくたちは確かにあのビートルズよりも大きな成功を収めた。
 人々はロックが本当は何であるかを知った。
 だが、ぼくはビートルズを心から軽蔑する。
 ビートルズに勝利した自分たちを軽蔑している。
 奴らは商業的成功を求め、ロックを腐らせた。
 大衆は彼らのために馬鹿になり、音楽も革命も駄目にされた」

 「それはいくら何でも言い過ぎじゃないか」
 百目鬼は当惑した。
 「ビートルズは多くの平和運動を行った。ジョンとヨーコは……」

 「甘ったれた美しげな偽善だ!」
 エックハルトは青筋を立てて怒鳴った。
 「〈ラヴ&ピース〉だなどと、
 のどかなことを言っている輩に革命ができる訳がない。
 愚劣な蒙昧思想だ。だから学生紛争は敗北したのだ。

 ぼくに言わせれば、ビートルズが生み出した最善のものは、
 いいか、あの狂気の殺人鬼、
 誇大妄想のチャールズ・マンソンだけだ。
 その他はすべて屑だ!

 フランスの五月革命のとき、
 作家学生行動委員会に加わっていた
 偉大な文学者モーリス・ブランショは
 シュルレアリズム運動に触れたある文章のなかで、
 忘れることのできない素晴らしい格言を残した。

 《自由なき社会で自分は自由だと主張するのは、
 その社会の隷属を引き受けることであり、
 その社会が己れの意図を隠蔽するために使う
 『自由』という語の欺瞞的意味を承認することだ》。

 『愛』や『平和』についても同じことがいえる。

 いいかね、百目鬼、ぼくもきみもベビーブーマーだ。
 20世紀にビートルズだの青春だのにうつつを抜かして、
 革命を砂糖壷のなかに溺死させ、
 オジンになっては欺瞞的にも帝国主義体制の犬に成り下がり、
 抑圧された後進国の人民の血と汗の甘い上澄みを掬って、
 幸福な緑の地球の統一と浄化の夢を見ながら、
 反動的なヤッピーに変質した手合いもベビーブーマーだった。
 歴史から何も学ばないのは愚か者だ。
 だが、ぼくたちの親は、
 自分たちが戦争でさんざんに味わうことになった
 世界の残酷な実相からぼくたちを保護すると称し、
 PTA的すなわち自己欺瞞的な親心で、
 現実になお存在する白く透明な徴兵制と
 偽の平和の監獄を隠蔽するために、
 ぼくたちに《愛》の美名の下、
 衛生学的な偽善の目隠しをつけた。
 人間は戦争後も相変わらず思想言論統制の奴隷なのに、
 そのことを気付かせまいとしたのだ。
 おお、呪われるがいい!
 ふん、百目鬼、きみの国の《戦争を知らない子供たち》という
 その昔のベビーブーマーたちの子守歌は、
 ぼくの国でも、ビートルズだのジョン・レノンだのと並んで、
 文部省ご推薦の洗脳ソングに採用された。
 ぼくらの脳の皺をたるませ、
 この偽りの平和に何の疑いも抱かないようにと。

 《戦争を知らない子供たち》とは、
 ぼくたちに支配者がつけたがったご都合主義的なレッテルだ。
 ぼくらは前の戦争について全く殆ど何も知らされていなかった。
 前の戦後よりもずっと悪い箝口令が敷かれていたのだ。
 親も教師もグルだった。
 彼らは言った。
 おまえたちは戦争みたいな過去の野蛮な時代のことは知らなくてもいい、とね」

 エックハルトは大きな目を見開き、百目鬼の顔を真正面からじっと見据えた。
 顔面蒼白、そげた頬の筋が微かにピクピクと動いている。
 震える指でライターを擦り、煙草に火を付ける。

 「百目鬼……」
 ややあってエックハルトは暗い物思いからその顔を擡げた。
 「その《戦争を知らない子供たち》という名前で、
 連中が本当に隠したかったのは、何だったと思う?」
 
 「いや……見当もつかないが」

 「ぼくたちの呪われた正体だよ……。
 きみの国は前の大戦ではぼくの国程大きな被害は受けなかった。
 それなのにドイツの戦後復興は、きみの国よりも速やかで、
 今は人口も君の国より一・五倍近くも多い。
 妙な数字じゃないかと思わんかね。
 それに、よく調べてみると、ぼくの国の状態はとてもひどかったらしい。
 特に汚染がね……。遺伝子には傷が残る。
 当然、子供なんか沢山作れる訳はないんだよ。
 ふん、きみは疑ったことはないんだろうね。
 自分が親と信じた者が本当は赤の他人かも知れないってね……。
 ぼくはまだ幸福な方だよ。
 親父はオーストラリアに亡命していたから、身許は多分確かだ。
 でも、ぼくと同世代の多くの青年たちは親を持たない。
 殆どが国家の養育施設で大人になった。
 戦災孤児だと吹き込まれてきたが、
 ベビーブーマーというにしては非常に不自然だ。
 年齢が二、三年誤魔化されている節も大いにあるんだ。
 ぼくらは薄々勘付いているんだよ」

 「何を」

 「人間は古来、己れに対して常に哲学的な自問を投げかけてきた」
 エックハルトは目を逸らし、立ち上がって部屋の中を歩き回り始めた。
 「哲学は、人間のフュシス
   ――つまり《自然〔ナトゥーア〕》と《本性〔ズブスタンツ〕》を
     同時に意味するギリシャ語だが――
 から発する問い、この根底的な問いから生じる。
 つまり
 《わたしは何処から来たのか。
  わたしは何者であるのか。
  わたしは何処へいくのか》だ。
 存在論は人間の本性の促しによって生じる第一哲学であり、
 またヘーゲルやハイデガーを産んだ
 われわれドイツ民族にとって
 最も固有な誇るべき学問であった筈。

 だが、今日、当局は大学の哲学部での
 存在論の研究や発表に不自然な圧力をかけ、
 或いは、理工科系学生の育成のために文学系、
 とくに哲学科の封鎖を画策しているらしい。

 ぼくの親父は、20世紀のデリダたちを見習い、
 この当局の実学主義的愚民化政策に対し抵抗組織を作ったが、
 当局の意図がどうも読めないといつも首を傾げていた。
 哲学科を閉鎖しようとしていながら、
 一方で、汎人間科学部なるものを捏造しようと画策してもいる。

 これは、それ自体イデオロギー的な瞞着概念に過ぎない
 アントロポース(人間)なるものを対象とする文科系の学科なのだよ。
 『人間』という概念の普遍性に疑いを発し、
 それが本当に我々の名前であるのかと
 慎重な問いを発してきた現象学系哲学者の偉大な栄為をなみする、
 この卑俗で反動的な自称『新進』の連中は、
 こういった営みを、
 非常に低次元な道徳上の意味での反人間主義だと誹謗し、
 キリスト教系の右翼とつるんで、
 哲学を好もしからざる学問であるというキャンペーンを張った。
 ふん、実はそれこそが、人間的自然への敵対行為に過ぎないというのに。

 これが体制の御用学問であることは火を見るよりも明らかだ。
 いつの世にもこういった産学共同路線の風潮は、
 《生産》を無反省に第一価値とする頭の悪い輩が、
 研究費の配分に利己的な動機からちょっかいを出し、
 協力を要請するというおべっか面の傍らで、
 こっそり尻に脅迫のナイフをつきつけるといった、
 断固排撃するべき学問研究の自由への越権
 ――否、侵害行為以外の何物でもありえないが、
 それにしたって、
 この時ならぬ《人間》イデオロギーの
 慌てふためいた押し付けには、
 もっと別の動機があるんじゃないかと誰だって疑いたくなるさ。

 ふん、何故、今更《人間だ、人間だ》と
 大騒ぎしなけりゃならんのかね。
 まさしく《人間》というのが、
 《われわれは同じ人間だ》という
 この一見自明らしく見える常識そのものが、
 微かに疑う思考の自由さえ
 神経質に抑圧しなければならない程、
 欺瞞的意味になっているのではないかね。

 ……百目鬼、ブランショの言葉を思い出してごらん。」

 「……でも、まさか、そんな……」

 「つまり、こうだ――
 人間なき社会で己れを人間だと主張するのは、
 その社会が己れの意図を隠蔽するために使う
 『人間』という語の欺瞞的意味を承認することだ。
 しかり、これが解答だ。
 つまり、われわれは人間ではない。

 これこそが連中の隠したかったこと、
 われわれが何処から来て、われわれが何者であるのかに
 疑問と興味を覚えないように、
 その問いそのものを抹殺したがったその真の理由だ!」
 エックハルトは言った。
 「われわれは、父と母の子、人の子に非ず。
 われわれはシミュラクラ、人の紛いものにして、
 工業生産物にすぎぬもの。
 われわれは何処からきたか――秘密の人間工場の試験管から、
 錬金術のレトルトのなかからわれわれは産まれた。
 われわれは何者か――われわれは人間ではない。
 われわれは魔術師の手で作られたホムンクルスなのだ!」

 「……試験管ベビー……?」
 こいつはいくらなんでもイカれているぞ。百目鬼は唖然としていた。

 「まったく、ハッハ、
 ファウストとメフィストフェレスの国らしい怪談だとは思わないかね。
 百目鬼。全く、ハイル・ヒトラーだ!」
 エックハルトが腹を抱えて笑ったのを見たのは後にも先にもこのときだけだった。