Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 4-2 明日への殺意

 エックハルト自身はそれ程、和尚ラジニーシにこだわっていなかった。
 彼が歌のなかで表現したかったのは、寧ろその20世紀末の時代のこと、そして何より、彼の愛するロックミュージックが突然、《聞くに耐えないひどい代物》にレベルダウンして、その美しい過激さと創造性を急速に失っていったその時代のことだったのだ。
 それは政治的にはソヴィエト連邦の崩壊による冷戦構造の消滅と、彼の祖国ドイツの統一、そしてアメリカ資本主義が己れの勝利に酔い痴れ、世界唯一の強国として、全世界に《アメリカの正義》の圧力を掛け始めた時代であり、また、コンピュータが普及し、古い塩化ビニール製のレコードが滅亡して、光磁気ディスクが取って変わった時代でもあった。

 彼の意見によると、ロックミュージックとフランス思想界の二つのシーンの退潮は、アメリカの保守主義者たちによって仕組まれた卑劣な情報操作と市場操作、及び、マインドコントロールによるものだったという。

 内的には大学紛争及び新左翼勢力の鎮圧に、外的には東側共産圏の衰弱化に成功したアメリカの帝国主義者たちは、自分たちを新保守主義者なるいやらしい美名で飾り立てつつ、次なる敵となりかねない勢力、新しい若者たちを恐れていた。

 ロックは社会に対する不平不満を醸成し、小生意気で老人や支配者の言うことをきかない反抗的な民衆を作り出す。しかもインディーズとなれば、操作しようにも手の出しようがない。

 他方、正体不明千変万化のアナーキストのドゥルーズとガタリのスキゾ革命論、お偉方のお説教に真っ向からストレートに対立する可愛い左翼とは違って、こちらの論法の揚げ足を巧みに取り、やがてその無根拠を示して論法それ自体を無効化してしまうという実に可愛くない《脱構築》なる奇術を教えるデリダ、そして、《知》や《真理》の暴力性を学生に教え、情報管理社会の目に見えない巧みな支配の技術のやり口の汚さをもっと巧みに目に見えるものへと暴き立てることで、まさに第二のマルクスとなりかねなかったフーコー、この三頭の怪物に啓発された新しい知識階級が、アカデミズムの垣根を越え、ロックに醸成された社会の保守勢力に対する大衆的な反感に結び付けば、左翼勢力以上に恐ろしい敵、紛れもなく自分たちがうまい汁を吸えるこの社会秩序それ自体を跡形もなく解体する無気味なアナーキスト勢力が誕生することが目に見えていた。

 共産主義に対する圧倒的勝利を目前としながら、既に己れの思想的敗北を痛切に告知されていたアメリカ保守主義者は、この未来の怪物がまだ幼く、政治の舞台に出現しないうちにどうしても葬り去る必要があったのだ。

 その手段にありとあらゆる方法が用いられた、とエックハルトは語った。

 マスメディアやメジャーレーベルによる取り込み、即ちデビュー戦略によって、ロックは体制内化され、コマーシャリズムの尖兵にすり替えられることでその魂を抜かれた。サウンドコーディネーターやコピーライターといった体制側のテクノクラートが擦り寄り、顕在的にもひどい作品を作るようにミュージシャンに強制したばかりではなく、おそらく人間を体制に馴致化し批判能力を失わせる、向精神薬的なサブリミナル信号が混入されるようになったに違いないと彼は語った。

 実際に当時、ニューエイジミュージックと称されるものの中に、人間の脳波状態を操作・安定させるサウンド・ドラッグ的なものが多く出されるようになっている。こうした反復音によって人間の意識状態を変化させる試みは、プログレッシヴロック、特にタンジェリン・ドリームによって研究され実験されたものだったが、それがサイコセラピー的な、いや、もっと悪い言い方をすれば、洗脳のためのテクノロジーに成り下がったのはこの時代だったのだとエックハルトは語った。今日ブレイン・マシンはありふれたものとなっているが、それが、サングラスにつけたダイオードの間歇的発光とホワイトノイズのシンクロのちゃちな仕組みによって安価に普及し始めたのもこの頃である。

 このブレイン・マシンは、精神安定的な音楽としてクラシックやお目出度いポップスや歯の浮くようなBGMをストレスリダクションや、もっと突飛な場合には、超能力開発や人間の進化にとって好もしい音楽として奨推する一方、しばしば過激で闘争的・興奮的なロックを好もしくない音楽、ひどい場合には低俗な騒音として貶める風潮に加担した。

 俗悪で欲深な動機から不純に音楽を聞く輩が増え、その芸術性や思想性が無視され、もっぱらサブリミナルな効果に主眼が置かれるようになり、リスナーは次第に健全な精神の高揚と反抗的な闘争心への共鳴を音楽に求めず、現実逃避的で快適な畜群的社会適応や、白痴的安眠や、ひどい場合には露骨に俗物的出世主義に人を誘う、精神衛生学的といいながら、実に反精神的な鈍物に人間を退化させる安っぽく子供騙しのシロップ飴を、己れの耳を虫歯にするために聞き始め、幸福で操作しやすい権力の仔羊に成り下がった。

 ハッピーな馬鹿になっただけのくせに、自分は仏陀になったつもりでいる体育会的=ゲシュタポ的なお目出度いというより既に悪魔のような狂信者の集団であり、こうなってしまえば、何を言っても馬の耳に念仏、豚に真珠である。もはや何にも疑問の念を持ちさえしない。本人は釈迦に説法のつもりでいるから実にたちの悪い話だ。

 エックハルトは、ブレインマシンの安易な宣伝者であったラジニーシを、TVばかり見ていたマスメディアを信じやすいディックと同様――尊敬していると言っている一方で――辛辣にも脳味噌の腐った馬鹿だったと吐き捨てるように言った。

 マルチマスメディアとコンピュータテクノロジーによる情報操作・思想検閲・精神支配、エックハルトの用語を借りれば《マインド・バインド》による人間の無脳児化と、テクノクラートの陰険なヘゲモニーが本格的に始まったのが一九九〇年代で、それを主導したのがアメリカのピラミッドに潜む一ツ眼の悪魔・フリーメイソンだったのだというのである。

 ところで、歌のなかで、湾岸戦争時に世界の警察官として、あたかも西部劇のガンマンが野蛮なインディオを《取り締まる》かのように、衛星放送メディアを駆使して己れを美化する映像を世界中に押し付けつつ、イラクのフセインを全人類の敵としてやっつけた醜悪な正義の味方ブッシュ大統領に代わって寧ろそのとき大統領であってくれたらと言われているのは、イギリスのロック歌手で多くの美しい反戦歌を残したケイト・ブッシュのことである。
 このケイト・ブッシュは《第四の実験》という歌のなかで、音楽を使ったマインド・コントロールの危険を警告している。《彼らがやってきて、遠くから人を殺せるような音楽を作ってくれと言う》という意味の歌詞が含まれているのだと、エックハルトは教えた。

 更に、反体制的なフランス系の新思想を潰すために、左翼勢力が操作されて大いにこの企みに貢献したと彼は言った。マスメディアや出版界もグルとなった。エックハルトは、百目鬼が新聞社の人間であるからといって遠慮はしなかった。

 テレビのニュースキャスターも邪悪だが、新聞記者はそれに劣らず悪く、現在もずっと、民衆を真の知識と真の教養、真の価値観と真の現実から目を逸らさせるために貢献している。否、寧ろただそれだけのために存在し、人々を無意味な公共的情報の洪水と目眩いと強迫神経症に晒し、人を殺すようなヘゲモニーに敷いている。

 「きみたちはよくコミュニケーション、コミュニケーションというが」
 エックハルトは百目鬼に言った。
 「コミュニケーションとは既に権力関係だ。黙っていなければ生きてゆけないような自閉症の子供を、まるで亀の甲羅をこじ開けるようにして、コミュニケーションに誘えば、その子を殺すことになる。きみたちのやっている取材だの報道だのというのは、そういう殺人と同じだ」
 「じゃあ、ぼくも人殺しだというのか」
 「そうだ」エックハルトは静かに言った。