「存在は多様な仕方(意味)で語られる」(アリストテレス『形而上学』第4巻第2章)。
 しかし、「他者は多様な仕方(様相)で現れる」というべきだろう。

 存在の多義性はその背後に類比的な意味の統一性をもっている。
 アリストテレスは存在の一義性を認めないが、同様に同名異義性をも認めない。
 存在の類比一義性同名異義性の中間に維持されている。

 レヴィナスはこれに対し存在の意味は悪であると一義的に言っている。
 そして「存在するのとは別の仕方」にあるプラトン的な「存在の彼方」の善のイデアを求める別の形而上学=倫理学を志向する。つまり存在論ではなく倫理学が第一哲学でなければならない。

 レヴィナスはその存在論批判において西欧の伝統的価値の機軸であった実体・自己・存在・内部・同一性の観念群を、いずれも、均一的で自閉的な全体性の秩序へと、それに還元不可能な筈の外部・無限・他者暴力的に還元=同化=内面化する権力装置として見ている。

 自己はそれに同一化できない外部を悪と看做しそれに恐怖する。
 それ故に外部を無きものにしようとしてそれを自己に同一化し内面化しようとする。
 自己は、何らかの意味で己れと同一ないし共通の本質を共有するもの(類比的同一性を有するもの)でなければそれとは関係出来ず、その存在を許すことはできない。
 例えば、他者であれば、それは自己と同類(仲間)でなければならない。
 それは他なる自己であり同じ人間である限りにおいてのみ存在を許容できる。
 そうでないならその存在は悪であるから奪わねばならない、つまり自分の同類でなければ人間ではないから殺しても構わないという倫理的倒錯に陥る可能性は常にある訳である。

 外部を悪と看做し、内部を善と看做す、その根源的恐怖に基盤づけられた論理自体が反転して悪の温床となる。
 外なる他者に殺されると脅えた者が外なる他者を殺してしまう。
 これはありふれた話である。
 しかし事が大きくなるとただごとではなくなる。

 外部や他者に潜在的脅威と敵愾心を抱いた自己同一性が多くの人間を同類として包摂し、国家のように巨大な権力をもったものに組織化されていったとき、何が起こるのか。
 例えば外部に対しては侵略戦争、内部に対しては異分子狩りや窒息的な管理=監視体制の強化や洗脳まがいの人間の調教と規格化が横行する。すなわち全体主義的原理による強制収容所=監獄国家の形成である。
 そこでは必ず刃向かう者、異なる者、弱き者、同化の基準に合わなかった他者が際限もなく殺されることになってしまう。

 「同じでなければならない」という価値観、それは極めて疑わしいし、それを野放しにしておくわけにはいかない。レヴィナスはこの同一性=存在の悪に対抗し歯止めをかける善の原理として「汝殺すなかれ」という他者の顔貌の発顕を提示する。

 この顔貌=他者は或る意味においては〈〉である。

 しかし、「他者は多様な仕方(様相=顔)において現れる」とわたしは言った。

 「汝殺すなかれ」という他者の顔貌はレヴィナスの主唱するところに従うならば、存在の悪を糾弾する善なる神である。だが、わたしは存在の悪があるだけではなく、他者の悪があるということを言わなければならない。

 神にその異貌である悪魔の半面があるように、他者の顔貌には邪悪な別の人相がある。
 別人がそれである。

 レヴィナスの提起する〈他者〉というのは神である。
 しかし、それに対し、わたしが提起するもうひとりの他者〈別人〉というのは寧ろ悪魔である。
 そしてはっきりと言っておかなければならない。
 〈他者〉は殺してはならない。しかし〈別人〉は生かしておいてはならない。

 わたしたちは判断しなければならない。
 それはレヴィナスの倫理学よりも厳しい倫理学を要求することである。

 しかし判断の問題は倫理学の領域を大きく逸脱している。
 カントでいうならそれは『実践理性批判』(倫理学)の問題ではなく、『判断力批判』(美学)の問題である。
 カントの美学は通常の意味の美学ではない。
 それは美感的判断力と合目的的判断力を含む判断力の問題である。
 また判断の問題は審判の問題、正義の問題として政治学をも含む
 それは政治的判断力の問題である。
 例えば〈他者〉を生かして〈別人〉を殺すというのは政治的判断である。

 政治(politics)という概念は、その語源からいっても美観を保つという意味合いをもっている。
 政治学は本来的に美学の下位学問である。
 更にアリストテレスにおいては倫理学は政治学の一部門であった。
 更に彼の倫理学では正義とは対他的な徳を意味する。
 この美徳の概念は宗教や権力や法律に規定されたものではなない。

 美徳とは悪徳に対照される美学的な概念である。
 古代ギリシア人たちは美しい人生を美しく生きるために善なるものの基礎概念である徳を喜ばしいものとして美学的に規定したのだ。

 わたしの考えでは第一哲学=形而上学は存在論でないとしたら、倫理学ではなく、政治学をも含む美学(判断力の学)でなければならない

 またそれは様相学としての美学でもあらねばならない。
 例えば存在・無・自己・他者というのは実体である以前に寧ろ様相である。

 様相というのはどこまでも美学的な概念でしかありえない。
 しかし、それは多くのものを含んでいる。
 美醜だけが様相の問題ではない。
 必然性・偶然性・可能性・不可能性も形而上的美学である様相の問題なのだ。


 わたしはまた認識論が価値論と切り離されて経験科学の婢女に成り下がっていることも間違っていると思っている。認識論は真理や経験や実在や有用性の奴隷ではない。
 認識すべきものは美しい人の心でなければならない。
 美しい様相を見るべきだ。さもなければ認識論などガラクタだ。

 わたしは特に認識論的問いから出てきた醜悪な実体批判と関係の第一次性を唱える連中にも文句を言っておきたい。
 まったく、冗談ではない。関係の第一次性こそが今日最も野蛮で邪悪でニヒリスティックな猛威を奮っている形而上学ではないか。それは存在や実体や自我の形而上学よりも遥かに悪いものだ。
 それは事実において必要以上に美しかるべき人生をしなくてもいい陰気な認識によって損ない、人間の自主性と主体性を洗脳的に破壊している。

 わたしは断固としてかの美しき実体の観念の復権を唱えたい。
 実体は確かに前提として存在しないかもしれないが、人間は実体なき空虚な関係の奴隷であってはいけないのである。

  *  *  *

 さて、自己と他者という人格的存在者を前提したところでしか倫理学は機能しない。
 それは自己を自明視しているし他者をも自明視している。

 何が自己で何が他者であるのかが漠然としたところで自己と他者について幾ら語ったところでそんなものははじめから決定不能のシニフィアンの戯れの域を一歩も出てはいない疑似問題である。

 自己と他者という問題は学者たちの理論ゲームの玩具ではない
 それは切実で実践的な問題である。

 認識論や科学基礎論の分野で実体概念が古ぼけた迷妄と片付けられているからといって、自己と他者というどこまでも実存的で実践的な問題でしかありえない事柄にいつまでたってもあるべき実体が伴わぬままにしておいてよいという法はない。
 それは議論以前の問題である。倫理学以前の倫理の問題である。

 わたしは〈他者〉の問題に関して実体ある議論を要求する。
 今日、特にレヴィナスを筆頭とするフランス現代思想の影響の名残で〈他者〉という用語は思想上の流行語となって極めて安易に流布している。
 しかしそこで何が語られているのか。こんなものが真の議論であるといえるのか、わたしは疑う。
 とりわけ学者や評論家たちの良心を疑う。

 第一に、一口に〈他者〉といってもそれは多様な意味をもっている。
 それは一義的に言うことはできない。
 レヴィナスのいう他者、ラカンのいう他者、フーコーの、デリダの、ドゥルーズのいう他者、更にウィトゲンシュタインやキルケゴールやブーバーのいう他者、それはどれも同じように〈他者〉と言われているが、同じ意味で言われているのではない。
 それぞれ問題の位相が違う。ごっちゃにして論じるべきではない。
 そもそも〈他者〉という概念は、これだけはその多義的意味の類比的統一として言えることだが、まさにその多義的意味の類比的統一であるところの〈存在〉だの〈自己〉だのの〈同一性〉に対するアンチテーゼとして出てきたものである。

 〈他者〉についてはだから「それはそもそも一体何であるのか」というようなアリストテレス式の意味の類比的統一を求めて巧妙にそれを一個の「他者問題」や「他者論」に仕立てあげるような問題意識は全くお門違いである。

 他者について統一的な意味や見解を求めることこそレヴィナスが批判してやまなかった他者の一般化であり自同者=存在への同化なのだ。
 寧ろ問題にされるべきであるのは、そのような他者一般の統一的意味ではなくて、そのようなものに還元されない個々の場面において「そこで問題になっているのは本当は何なのか」「何故この問題がここで問題になっているのか」という具体的な問題相に肉薄してゆく姿勢である。
 それを遠巻きに解説したり概観したり評価したり貶したりすることではなくて、問題を共有することが重要なのである。
 彼ら(彼らも対象ではなくて他者である)が何を結論したかが問題ではない。
 そんなものについては幾らでも悪口を言っていいのだ。

 問題なのは彼らが何を訴え、何を問題にしようとしていたのかが問題であって、方法論だの理論だの権威ある結論だのの反復などどうでもいいのである。