Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 3-8 絶望のバルド・ソドル

私達のファースト・アルバム『Slow Crimes』は、そのタイトル自体そうした《民主主義政治》のゆっくりと行われる罪を示唆している。イギリスにおいては40年代から80年代にかけての長期間の堕落がその明確な証しである。一方においては、みじめな本当に貧しい人々が徐々に増え、しかもそうした人々のための福祉と社会的行為が次第に退廃し彼らは隔絶されていく。その一方では個人的欲望と疑惑を本質とする軍隊化された抑圧的警察国家が進展している。さらに私達は全ての共同社会における、ゆっくりとした殺戮を考える。ゆっくりと行われる環境の強姦を考える。核における壊滅行為という悪夢を伴った私達の文化におけるテロリズムを考える。そしてこれらの「ゆっくりした罪」はいつも〈よい流儀〉や〈文明〉と云った仮面の下で行われていることを指摘している。
 (ティム・ホジキンソン(ザ・ワーク)一九八二年来日前の公式メッセージ『フールズメイト82年7月号』掲載)


  *  *  *

 チベットのシャンバラから
 知者善人の仮面をつけすべてを巧みにすげかえる
 悪意にみちたシナルキーの使者が全世界に派遣された
 きみたちをも中有〔バルドゥ〕の半死人に変えるために
 半死の仔羊に変えるために
 それは恐怖の大王のオーヴァーシャドウ
 シンクロニシティーにはさまざまな罠が潜んでいる

 ノマドの民、ノーマッドの民、
 外部の砂漠の自由な放浪者よ
 極移動〔ポールシフト〕は起こった 
 いま内部は外部から襲ってくる

 外に目を向けるな
 そこにはもう外はない
 外に逃げ場はない

 撤退せよ
 そして内部へと収斂せよ
 ツィムツームせよ
 何故なら 今、外は内側に折り畳まれるのだから
 外の思考をきみの内なるものへと退避させよ
 だが内部にも罠は待つ、
 奴らはきみの内部をも狙っているのだ

 奴らはまた《他者》に成り済ますことも巧み
 そしてきみの弱点をも衝いてくるだろう、きみは優しく
 《他者》を殺すことができない、
 暴力をきみは振るえない、
 たとえ言葉の暴力であれ
 きみの自我を圧し停めるのは《汝殺す勿れ》という神の掟
 あるいは防衛の独我論的欺瞞への憎悪、
 または弱者への哀れみの念

 だが、忘れないで欲しい、きみが彼らに抵抗しなければ
 殺されてゆく《他者》とはきみ自身なのだということを
 忘れないで欲しい、愚かさは今、
 理性よりも狡猾な手段できみを陥れようとしている。

 おう、このものたちを《他者》とは区別して《別人》と呼ぼう。
 《別人》の心は冷たく、アンドロイドのように冷え
 その顔は裸の顔ではなく、
 虚無を隠しイリヤに媚びるための仮面。

 彼ら最後の人間たちに取り込まれるな、《別人》は愚かだが狡い。
 彼らは他者の場処を無神経に簒奪し、聖なる土地を踏みにじる。
 彼らはその愚かさを武器に使う、分からないことこそ彼らの強み。
 彼らに語れば、言葉は非常に空疎となり、手応えもなく
 あたかもコンピュータと語っているように空しい。

 コンピュータは思考しない、
 しかしその愚かさはきみより素早い。
 そして彼らはきみの語る言葉の語の意味をすげ替え、
 指示するものを入れ替えるのにも巧みだ。
 驚くべき無神経さと愚直さで、
 きみの語る言葉を逆さまの意味に聞き取る。

 何ひとつ言わんとすることを伝えられず、話せば話すほど
 きみ自身の口から出た言葉は裏切り、裏返され、逆襲し、窮地に陥る。
 彼らは決してきみの心を聞かない、聞くのは上滑りする単語の上辺
 それは彼らの耳に入るや都合よく処理されて違う意味となる。

 この者たちは驚くべき空洞、
 闇が人の皮をかぶって成り済ましている。
 そしてきみを脅かしてノイローゼに追い込む。

 その者たちの顔をご覧、誰もが驚くほど互いに似通い、
 同じ虚ろな目の虚ろな光できみを見つめる。
 だがきみの顔を見てはいない、
 まるできみなどそこにいないかのよう
 するりときみを素通りして
 目に見えない無気味な夢を眺めている。

 その口元をご覧、
 誰もが不可思議なうすら笑いを浮かべている。
 きみのように泣き、怒り、
 強い声で主張し激しく生きている口元ではない。
 それは成仏してしまった死人の唇、
 仏像から盗んできたような悟りの物真似〔ミメーシス〕。
 その額には自我がない、ロボトミーの空洞を
 第三の目アジナーチャクラと勘違いして、
 おめでたくなったそこを眺めれば、回っているのは
 神聖なチャクラではなく、
 遊園地のメリーゴーラウンドかジェットコースター
 彼らは中有〔バルドゥ〕の遊園地――黒き鉄の牢獄の永久の囚われ人、
 悪魔に魂を売り渡してしまった抜け殻の肉体。

 彼らのためにすべては虚妄と変わる、
 大衆社会はうつろな亡霊社会に
 民主主義は愚民制に、
 自由主義は暴君の恣意の支配に
 そして生ある世界のすべてが
 半死人の夢の漂いにすり変わってゆくだろう。

 別人どもは平和な人々、
 疑いも不満も持たず、
 死ねといえば死に、
 生きろといえば生きる、
 常に彼らは指示を待つ、
 インプットを待つコンピュータのように。
 言葉は心を打ち明けあう響きを失い、
 すべては規則と命令だけになる。

 それは奇妙な仔羊の群れ、
 馴致されきった道徳的な民衆、まるでお手本のような
 だが、人間は仔羊ではない、仔羊になり下がってよい筈はない。
 この畜群の白く呆けた顔をみるなら、
 イエス・キリストも吐き気を催し
 その顔を背けて逃げ去るだろう、
 このものたちをどうやって救うというのか。
 救われてしまって地獄から逃げず、
 喜々として地獄を作り続けるこのものたちを?

 やがて彼らは痴呆のように誰からともつかず語り始める
 《みんな仲よくしましょうよ》と。
 仲良くしなければならず、
 輪に入らないものは悪い人となるだろう

 彼らは手をつなぐことを好む、
 そして輪になって子供の踊りを始める。
 輪になって輪になってクルクルパーの踊りを始める。
 そして口々に言う――世界は一つにならなければいけないと。
 争いを破棄せよ、真実を求めるための議論も破棄せよ、
 考えなければわれわれは同じ
 始めに答えありき、
 黒い疑いや不安な問いは健康と幸福を毒する病気となる。

 そしてぼくは見る、
 アメリカのシカゴに世界中から異なる宗派の宗教者たちが集い
 仲たがいをやめて互いに肩を抱き合う異様で感動的な出来事を。
 ああ、ダライ・ラマ、バルドゥの平和を齎した偉大な人よ、
 あなたがチベットに帰れればいい、それは素晴らしい演説。

 だが、ぼくは思う――ラジニーシはそこにはいない。
 ぼくは敢えて震える拳を握り締めてシカゴのニュースに突き付ける。
 何故この日この場面から
 ラジニーシはあらかじめ除かれねばならなかったのか
 何故この大いなる宗教の輪の主催地は
 こともあろうにアメリカなのか。

 ぼくの拳は空に迷う、
 そしてこの平和の手前にひるんで力なく項垂れる。
 何ゆえにわれわれはこの平和に憑依されてしまったのか。

 平和に憑依されてしまった人々、
 虚ろな神秘に心を盗まれた仔羊の一人が
 やがてぼくのもとにやってくる――
 かつてサニヤシンの立っていた場処を
 その者の清潔な足が汚していた。
 彼の黒い悲しみの痕を踏みにじるように
 そしてサニヤシンから昔聞いたことがある
 同じ単語を異なる響きで男は言った
 ――その単語は《ハイヤーセルフ》

 ハイヤーセルフに身を委ねるのです、
 それは全ての宗教を越えた叡智の霊
 自我に凝り固まっていては世界は見えない、
 宇宙と話すことはできない
 ハイヤーセルフは宇宙の霊魂、
 無心になれば宇宙の意志が聞こえる
 これから新しい時代が始まります、
 人類は争いをやめ、進化して宇宙人になるのです

 ぼくはぞっとし、悪魔のように真っ赤に怒って、その男を罵った。
 この場から消えうせろ、
 世迷い言を並べ立てるその虚ろな口
 その不躾に哀れむような友達めかした虚ろな目
 何一つ現実を知覚せぬその脳髄、
 己れを失った空虚を心と偽るその虚ろな胸
 消えうせろ、悪霊に取り付かれた豚よ、
 愚者の軍団レギオンよ
 おまえたちは崖から落ち、
 血反吐を吐いて滅びるがいい
 きさまらの安っぽい宗教と共に、
 地獄の業火に焼かれて尽きよ。
 他者に成り済ました偽り者よ、
 おまえたちの頭上にアラーの呪いのあらんことを!

 日本の友よ、そして全世界に飛散した
 ベルリンの壁のかけらの息子たちよ。
 ぼくはもう一度きみたちに告げたい、
 滅亡した王国の新たな離散〔ディアスポラ〕の民よ、同朋よ。

 きみは他者を助けるために
 他者に成り済ました他者とは別の者を殺していい
 勇気をもってその偽の顔を打ち砕け、
 それは仮面にすぎないのだ。
 空から降ってくる異星のハイヤーセルフに
 他者の聖域を侵略させるな。

 ハイヤーセルフ
 それこそが憎むべき荒らす者の名前。
 願わくば和尚ミカエルの侵犯行為への助言が
 自己に成り済ましたこの別人、
 最も無気味なこの客人の手引書になりませんように。