Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 3-5 黒き鉄の牢獄

 壁が崩れる前の晩、ぼくは不思議な夢を見た
 茶色の衣を着たラジニーシはまるで法皇のよう
 豪華な、だが暗い礼拝堂に無数の人々が集いあつまり
 ラジニーシは我と我が身の肉を
 パンを千切るように分け与える
 重く悲しげな聖歌がたちこめる聖体拝受の祭、
 それは別れの儀式、人々は泣き、
 ぼくも泣いていた、その涙は辛く
 そしてぼくがラジニーシから受け取った聖餅は
 泥団子のように苦かった
 だが彼は泣いていない、
 大きなその瞳には厳粛な覚悟の色
 ぼくを見つめて、
 その長衣の両腕を広げ、何も言わずに抱き締める
 その胸は暖かかった、ぼくは彼の鼓動を聞いた
 ぼくは既に泣いていたが、
 そのとき初めて激しい悲しみが込み上げる
 胸の内側からドンドンと黒い拳で胸骨を叩くように
 それはどこに向けたらよいのか分からない
 怒りの噴煙と強い苦しみの咽び
 ぼくは悔いていた、
 それは彼の書物を恥じて読もうとしなかったことへの悔恨か
 信じてもいない者がその聖餅に預かることへの恥辱と疚しさの感情か
 ぼくはむかつき、
 胃から胸一杯にまで苦くなりながらラジニーシに抱かれていた
 そのときやっと分かった、
 この人は素晴らしい人だったのだと。

 するとサニヤシンの男は言った――
  《きみは彼の死を、一つの時代の終わりを予見したのだ。
   そして彼が誰であったのかも知ったのだ、
   だがその彼はもういない。
   この場処の壁がなくなり、
   ぼくたちの出会ったあの場処も崩れ去ってしまった。》
 そして彼は最後に言った――
  《フィルは知っていた、彼がタゴールであることを。
   空から白く透明に降り来るものへの疑いが兆したとき、
   フィルは恐らく叫ぼうとした、
   全世界に向かい、誰がタゴールであるのかを
   タゴールはインドの聖者、その命は毒に断たれる、
   フィルはそれを夢に見ていた。
   だが叫びはラジニーシには届かず、
   声が大きくなる前に奴らはフィルの喉を締め上げた。
   奴らは世界を征服し、
   やがてぼくたちもその見えない手に掴まれよう。》

 フィルは知っていた、
 広場〔アゴラ〕の暴力裁判が誰を殺すかを知っていた彼はソクラテス
 恐るべき愚者の投げる陶片を恐れ、
 彼は高い城に立てこもる
 バベルの町の外れ、
 不吉な塔に立て籠り/或いはバスティーユの政治犯のように
 ロンドン塔の反逆者のように、
 囚われの身のバビロンのユダヤ人のように
 高い城に幽閉され、
 その窓から警鐘を鳴らし、アジビラを撒くサド侯爵

 それは市場のイドラに抵抗するための最後の砦、
 彼はまたフランシス・ベーコン
 薔薇と十字の友愛団の創設を闇のなかに呼びかける善意の人
 そして彼はヨナ、
 ニネヴェを呪い、憎悪の言葉を投げ、
 やがて魚に呑まれたぼくらのエリヤ。

 高い城の男は知っていた、
 第三帝国が北米東岸にこっそりと生き延びて
 世界を陰から支配していることを。
 ブレインワッシングトンには悪徳が栄え、
 ピラミッドには一ツ眼の悪魔が潜む
 それは片目のヴォータンのシンボル、
 ヴォータンは老いたるマーキュリーの姿
 それは商業の神、
 船を沈ませ人間の心臓を狙うシャイロックの化身
 死の商人のビジネスライクな営業スマイルの背後には
 核戦争の意志が潜む。

 フィルは高い城、崩れる塔に立て籠った、何故?
 塔には高いアンテナがある、
 神の情報を受信するというアンテナが。
 だがそれは避雷針にはならない、愚かなフィル。
 神は雷となってきみを抱くだろう、塔は砕け、きみは滅びる。
 きみはセメレーの悲劇を知らなかったか。
 それとも我が身を焼き尽くしても、やがて魔都テーバイを滅ぼす
 大いなる神の子ディオニュソス=キング・フェリックスを
 この世に生み出したかったのか、
 最後の狂気に賭けようとしていたか。

 けれども、フィル、あなたに言いたい。
 あなたの誇り高い城にTVとFMに媚びる
 アンテナがついていたのは悲しい恥辱。
 VALISのニュースは
 豚のニーズに食い尽くされて跡形もない
 奴らの軍事衛星が神を撃墜し、後釜に座る、放送衛星になりすまして。
 チェルノブイリに神は落ち、ソヴィエトの心臓に止めの一撃。
 
 世界は苦く、苦く、黒く汚れ、
 黒い神〔チェルノボグ〕の真実は覆われてしまう
 白い神〔ベロボグ〕は表面を砂糖でまぶして
 白く化粧し、その腹黒さは消されていよう。
 高い城の男の部屋には
 TVとFMのテレフォンコールが鳴りやまぬ。
 あなたをまるで脅かすように企みの電波は鳴り響き、網を張り巡らし
 いまひとりの天使の翼を落とそうと、時に神に成り済まして芝居を打つ。

 みすみす罠に捕らわれにゆくのか、フィル。
 神秘や奇蹟、不思議なヴィジョンは
 あなたをおびき寄せるための餌。
 巨大な見えない化け猫がおまえの翼を狙って舐ずり笑う。
 フィル、あなたもまた狙われていたのだ
 それとも既に片翼を失い、堕ちて敵の手中にいたのか。

 真夜中のテレビの吹雪きからは砂男が出てくる、
 それは少女の魂を誘拐するポルターガイスト。
 どうしてTVをつけっぱなしにしていたのか
 血眼のその瞳できみのソフィアの行方を捜そうというのか
 そこにはもう聖なる侵入はない 哀れなフィル
 TV局は占拠され、
 ブレインウォッシュの洗剤が画面〔ヴィスタ〕のなかにぶちこまれた
 だがおまえの心があらわれることはない
 おまえの脳髄があらわれるとしても
 あらわれるのは人を馬鹿にしたチープなカートン
 王のふりしたフェリックス・キャット
 きみの命を狙うチェシャ猫のシンボル
 聖フィル&ソフィアの赤い胸を狙ってベリアル雀の陰謀が進行する
 さまざまに化ける砂吹雪の魔術、悪魔が出てくる現代の鏡
 そこにおまえの心があらわれることはない
 きみは恐らく悪霊に哀訴していたのだ、ぼくの片翼を返してくれと

 きみは既に失っていた、きみの左の翼、
 ふたつで一人のシジュギイの半身〔かたみ〕を
 だが奴はきみの言葉などに耳を貸さず、残りの羽をも狙っていた
 哀れなフィル、哀れな片翼の駒鳥よ、きみは魔物にペロリと呑まれ
 TVの前には誰もいない、誰もTVを消す者はいない
 ソフィアは戻らず、それどころかきみまでも連れ去られてしまったのだ
 誰が殺したホースラヴァー・ファットを
 誰が殺した和尚タゴールを
 二本のオリーブの樹を切り倒すように。