Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 3-3 右側に気をつけろ

 学校からの行き帰り、あるとき政府の役人が来て
 黄色い旗をぼくらに押し付け、道路に白い梯子を描いてこう教えた

 右側を歩きなさい、右側は安全歩行
 左側に気をつけろ、左側は危険な車道
 おまえたちには右側を歩く自由がある
 ぼくたちは言い付けを守り、右を歩まねばならなかった

 世界は二つに仕切られていた
 右と左と、西と東に
 壁の向こうに何があるのか知りたくとも
 誰も教えてはくれず、唇に置く人差指、意味ありげな怖い顔
 やがてその顔はまぶたに焼き付き、その薄暗い壁際を通るたび
 灰色の石のおもてに幽霊のように蘇った

 ぼくたちは右側を歩む
 右側を大人も歩む

 大人たちの顔のおもてに凍りつく微笑
 諦め切った人々の禁欲的な、優しげな微笑

 右側を子供も歩む、大人も歩む
 ぼくたちは皆右側を歩む、一、二、一、二
 ぼくたちは皆柔順に歩む、右側を、そして壁際を歩む、
 しかつめらしく顔を俯け、
 灰色のなかから睨んでくる大きなお化けの顔を避けるように

 目を背ける頬は強ばり、その頬には微笑 同じ微笑
 それは厳粛な魔法の儀式、ほほ笑みのまじないで聳える壁の
 石の悪魔の怖い顔から子供達は守られていた

 彼らは信じ、ぼくらも信じた
 そうすれば壁の悪魔は決して近寄ってこないのだと
 だが大人たちのなかには別のものたちも混ざっている

 左側を規則に反して悠々とわたってのける奇妙な人々
 灰色の壁に落書きをし、恐ろしい建物に住み、激しい声で歌う
 彼らは告げる――
 《右側に気をつけろ、ゴダールも言っている
  右側を歩む者は歌を失う 
  冷たく白い指の技術者が優しげな顔をつくり
  テクノロジーがおまえを包囲して機械の鳥籠に入れようとしている
  カナリヤよ、永久に歌いたければ、おまえが鳥の性をもつことを忘れるな
  奴らはネクタイを絞め、己れの首を次第次第に締め付けながら
  やがておまえにもそのファッショナブルな首吊紐を差し出して誘惑するだろう
  われわれは皆麗しいインテリジェンスビルにぶら下がり
  飛ばなくとも心地よい風に吹かれ、
  右に左にゆらゆらと揺れていることができると。
  美しい白魚の指のものたちのもつ輝かしい機械マッキントッシュ
  虹の林檎は調べを奏で、知恵の実である己れを讃える
  それはエレガントなセイレーンの調べ、
  今度はオルフェウスの負けるとき
  詩人は不要、その屍はバラバラにされ
  シュレッダーからダストシュートへ
  そしてお前の脳も
  七色の林檎の徴のごとく
  その一部を齧り取られる》
 彼らの恐ろしい呪いの歌に大人たちは眉を顰め、
 ぼくたちに見るなと命じる。

 だが激しい彼らに混じり、穏やかな顔の人々をぼくは認めた。
 茶色の東洋風の衣をまとい、
 生き生きと踊り、歌い、喚き、よく笑う
 そのひとりがぼくにボールを転がして寄越し、輝く瞳で遊びに誘う。
 《喜ぼう、人生を楽しもう》
 その両目は大きく輝く、右の目も左の目も
 ぼくは彼に魅せられ、彼に驚く、
 黒く円いその瞳に蔭りはみえない
 ボールは空に舞い、
 ボールの瞳をした青年は明るさを撒き散らしながら
 ぼくとボールと戯れる、空と土と戯れる
 それは壁際での不思議なとき
 
 別れ際にかれは言う
 《ぼくはサニヤシン、この本をきみにあげよう》
 それはどこか怪しげな風情の髭の男の表紙の本、
 男の名はラジニーシ
 だがぼくは何故かその本を恥じ、
 枕の下に隠して読むことはなかった
 青年の不思議を信じる陶酔の表情に、
 ぼくはついてはいけなかった
 ぼくは彼についてはいけなかった、
 彼の信念は余りにぼくらと違っていた

 一方、何も信じていないのに
 どこかしら絶対的信念に凝り固まった人々もいる

 スーツを着た若い大人が大股に歩く、
 その顔のおもてにも微笑 冷笑、優しさを巧みに装い、
 そのくせ押し付けがましく微笑してくる

 その微笑にぼくは脅え、人見知りした
 まるで微笑のお手本のような微笑

 これは重要なこと、ぼくは人見知りし、自分自身に退いたのだ
 ぼくは人見知りを知っていた 目には見分けがつかなくとも
 心の冷たさは空気で分かる、その人達も同じ右側を歩いていたが
 ぼくには冷たいボディの自動車が
 人間に成り済まし歩いているように思えたのだ

 彼らは歩く、肩で風を切り、
 意気揚々と自動車のように睨みをきかせ
 煙草は吸わない、そのスーツは灰色ではない
 むしろ健康な頬、明るい鳶色の瞳、ゆったりした態度
 つけっぱなしたカーラジオのように
 最新流行のアメリカのポップソングを歌う
 いかにも楽しげに でもその金属の声にぼくは脅えた
 彼らはぼくらにウィンクをする
 ウィンクはアメリカの友人の徴
 それは空気の見えない眼帯 
 そうやって世界の片側を軽やかに無視してみせる

 不思議だね、ヴィム そう
 ぼくはきみに話しかけているんだ
 どうしてアメリカの友人は
 いつも片方の目しか明けていないのか

 きみはぼくたちに黙っていた ぼくはでも知っている
 それはヴォータンのしるし ヒトラーを見捨て
 アメリカにこっそり亡命していたソフトに構えたナチスの魂
 それはコロンボ親分〔ボス〕の姿に化け、
 平和の使いのなりをして帰国してきた外交大使
 でもぼくは知っている
 自由の女神には翼がないことを

 そして男はぼくたちの街から天使の翼を毟り取り
 母の白鳥の腕を砕いて 
 ぼくたちを天使の国から引きずり降ろすためにきたのだ
 
 それも良い、翼が天使を縛るものなら 地に堕ちるだけが天使の自由
 時はいずれ来なければならない たとえ翼を失っても
 それが孵化のとき 地を這いずったとしても それは巣立ちの日

 けれどぼくは母の腕が砕かれたことを悲しいと思う
 砕け散った翼の砕片
 それは容器の破砕〔シェヴィラス・ハ・ケリーム〕
 失われた楽園の記憶を
 あたかもヒナ鳥が卵殻をその頭に乗せて歩み出すように
 ぼくはその灰色の石片をこっそりポケットにしまいこんだ

 その薄汚れた壁の遺骨をぼくは指の腹でそっと撫でる
 きみたちが小綺麗なクリスタルを撫でて願いを唱える魔女術のように
 ぼくはその無骨な石に母の教えてくれたルーンを刻む
 ティワズ、それは上を向いた矢印のかたちのルーン(↑)
 天にましますわれらの真の父親の名、デウス・パテール
 それは真の軍神のしるし、
 おお、秘められた神われらのティール
 ぼくの心がいつもあなたの空を思い出しますように

 その腕を狼に食いちぎられた神よ
 あなたの血は天安門を赤く染めたのだ
 ベルリンの壁が崩れたとき それは解放のとき

 ぼくの父と母が殺されたとき 世界はひとつになったのだ
 片側が片側をのみほしたとき 世界はひとつになったのだ

 フェンリル狼の大きな口に向かい、
 子供達はハールメンの笛吹き男についていった