Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 3-2 ベルリン堕天使の詩

昔むかし一つの国があり、その名をドイツといった。
その国は美しく、国があり広野があり
そして自分がどこへいくのか知らなかった
その国は戦を始めた、世界中どこへでも
のさばりたかったのだ、そのため小さくなった。
さてその国は長靴をはいた理念を与えられ、
戦という長靴で出かけて行って、世界を眺め、
戦として帰郷し、無害なふりして沈黙した、
まるでフェルトのスリッパを履いたみたいに、
まるで外には見るべき悪は何ひとつなかったみたいに。
だが溯って読めば、長靴をはいた理念は
犯罪と認められた、あれほど多くの死者たち。
そこでドイツという名のその国は分割された。
今その国は二つの名前をつけられたが、
どんなに美しく、岡があり広野があっても、
相変わらずどこへ行くのか知らなかった。
ちょっと思案してから二つながら
第三次世界大戦に身を売った。
それからはもうひと言も言わない、地には平和を、と。
 (ギュンター・グラス「昔むかし一つの国があった」高本研一訳『ドイツ統一問題について』一九九〇年 中央公論社)


 子供が子供であった頃、
 世界が一つであるなどとは知らなかった。
 寧ろ世界は二つに別たれていた――
 善と悪、大人と子供、太陽と夜、地球と月、右と左、西と東に。
 父母と憩う明るい世界と、灰色の見知らぬ影の住む暗い世界に。
 夢の卵はレダの翼のもと、長く母は翼を延ばして世界を仕切る。
 不吉な《外》の侵入から内なる光を抱きとり、
 わが子を灰色のコートの誘拐魔から守っていた。
 わが子の頭に金輪の王冠、着せる衣は聖く白く
 いつまでも白くあることを願って、母はそれを洗う。
 庭一面にはばたく洗濯物は母の翼、光と風をはらみ、
 芝生の帆船は青空に浮き上がる白い月面を目指して飛ぶ。

 月の回りで空が黒くなればそれは眠りのとき
 遅くまでTVを見ていてはならないと母は言う
 TVではなくおまえはこれから夢を見なければいけないと
 母はわが子をベッドに運び、
 子守歌には《夢見る兵士(アーミードリーマー)》を
 眠れぬ夜にはホフマンの『砂男』を読んでくれるそしてぼくは眠る

 砂男は真夜中のつけっ放しのTVに潜む
 吹雪く電波の砂嵐からそいつは現れ、子供の瞳を、魂を狙う
 それは片目のポルターガイスト、古代の魔神ヴォータンの亡霊
 人間を意のままとなる操り人形に変ずるために
 お近づきの印にと差出すのは、ものがよく見えるようになるという魔法の瞳
 自分から刳り貫いた眼球なのだと主張するが
 実はカラーTVの部品をくすねて作った冷たい義眼で
 誑かした子供の心を盗み、人の瞳を盲にするシャイロックの物語
 すると人間〔アントロポース〕は義眼トロプス[=巨人]に変わって
 おおきな影は人から剥離し、
 百眼巨人〔アルゴスパノプティコス〕の 鬼〔オーグル〕が現れ
 おお、その聳えのしかかるブロッケンの夢魔〔アウフリーゲル〕
 百万リーグの睨みの悪魔〔ブリックデーモン〕
 変光星アルゴルの亡霊銀河を広げ、ズキズキと
 脈動する百億の邪視の咒縛がおまえを石に変え、打ち砕いてしまうだろう

 わたしの目〔マイン・アオゲ〕を見て、とおまえに
 囁く女を信じてはならない それは悪意の瞬間〔アウゲンブリック〕
 砂男が連れるその踊り子はメドゥーサの化身
 その瞳の確信に潜む月の狂気〔ルナティックマニア〕におまえを占わせるな
 星占い〔アストロロジー〕と月占い〔ジェオマンシー〕が
 おまえの魂をかすめるとき
 女が狙っているのはおまえのその白い翼
 真のマニアは神の賜物とソクラテスは知っていた
 また本当のホメロスの歌声も よくお聞き

 死すべき者はそのものを翼持てるエロスと呼ぶなれども
 不死なる神々は翼ある者プロテースと呼ぶ、翼生ずることの必然のために

 だから忘れないで いつの日にか片腕の軍神ティールが
 おまえの魂を清めるために 狼に千切られた腕を差し伸べるときまで
 聖なるその火曜日が来るまで 水曜日に魂を委ねないで
 ティールはきっと土星の試練と苦しみの輪の徴を
 ――そういって母はぼくの髪と、
   頭上に輝くエンジェルリングを撫でて言うのだ――
 真に贖う術を知っていることでしょう、わたしの夢見る兵士、カッシエルよ
 祈りなさい、ティールの失われた右腕が戻ることを
 その腕を千切ったものはロキの息子ではない
 世界を月を太陽をそしてティールの片腕を食べてしまったフェンリル狼
 荒野の狼〔シュテッペンヴォルフ〕に化けていたのは片目のヴォータン、
 (男は荒野ではなく都市に住んでいる)
 ヴォータンはそうやってデウス・パテールの地位を
 偉大なるティールから盗み取った卑劣な男
 義眼の男に気をつけなさい、彼の片目に気をつけなさい
 右側に気をつけなさい、片目と片腕の違いに気をつけなさい
 ヴォータンは甘い言葉で手をさしのべるが
 忘れないで、おまえの頭に手をさしのべ、次の聖句を唱え
 天国へ 永遠〔エターニティー〕への扉を開くことができるのは
 ティールの右腕だけだということを
 《汝、不死の神たるべし、神聖にしてもはや死すべきものに非ず》
 決してその彼女から永遠へ(フロム・ハー・トゥー・エターニティー)
 至ることを夢想してはいけない
 その女からの出発は妊婦〔マタニティー〕ドレスに至るだけ
 けれどもおまえは自ら妊み自ら子供を生まなければならない体である筈
 天使が不毛な性であると誰が一体決めたというのか
 こういって母は息子の天使の額に口づけをするそしてぼくは眠る

 子供が子供であったとき
 世界は一つではなかった、これは大切なこと
 嘘を言わないで、寧ろ世界は二つに別たれていた
 とおく延ばされた母の細い腕はまだ若く白鳥の翼
 ぼくらの街にも長く延びる石壁の敷居があり
 それを越えて向こうへ、また向こうからこちらへとは
 誰一人として渡ってはこれなかったが
 ぼくたちは自分が囚われているとは知らないでいた
 これは重要なこと、嘘を言わないで
 ぼくたちは母の白い翼の下に憩い
 寧ろ愛に守られてそこにいた
 世界は二つに仕切られていた
 右と左と、西と東に