Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 4-10 幽霊の人権問題

 阿礼父社が創造してしまった《電子霊》は、その霊的神聖さや人格的実在性を外ならぬその生みの親から《幻体》という冷たい断言によって否認はされていた。
 しかし、冷たい物言わぬ墓標や、真の霊界に行って便りひとつ寄越さない魂よりも、現に会って話のできる《電子霊》を、その死者本人の現実的霊魂といつまでも見なさないでいろという方が無理な相談だろう。

 そんな感傷的になった遺族たちを前に、《電子霊》たちは、ファントム・イエスなどと違って決して身の程を弁えてなどいなかった。

 自分こそ《御本人》に外ならないと主張し、殆どがクローン肉体への転生を――つまり《死者の復活》を願って邪魔臭い《シャイロック法》を呪った。
 無論、中には静かに眠らせてくれと言って、己れの消去を懇願する者もいるにはいたが。

 そこで今度は《幽霊の人権》が問題になり、《シャイロック法》体制に揺さぶりをかけ始めていた。

 けれども、《死者の復活》こそ、複製身体の生体解剖などより以上に、《シャイロック法》が本当に恐れ、何としても禁止しようとした当のものに他ならなかったのである。

 《シャイロック法》の基礎には、新しい人権である『自己同一権』と『死ぬ権利』を保障し、これを脅かす複製を禁じるという考え方が横たわっていた。
 『自己同一権』は『自己唯一権』とも言い換えられ、それは『死ぬ権利』に基礎づけられていた。

 或る人が、彼自身との同一性に連れ戻され、唯一の彼本人であることを獲得するのは、彼が死ぬことによってである――より正確に言うなら、自己同一的個人とは《死への存在》としての実存であるという俗悪化されたハイデガー哲学の考えが、現代の法理論の根幹に繰り込まれていた。
 そこで人格の尊厳とは、《死への存在》としての実存の尊厳と見なされ、死が決定的な終わりでなければならないからには、どうしても複製による《死者の復活》は禁忌とならざるを得なかった。

 或る人が複製人間を残して死ぬとする。その場合にやはり彼は死に、帰らぬ人となるのであって、複製技術による《死者の復活》は、その死にゆく人にとっては、彼自身の復活を意味するものではない。それはそっくりそのままの別人の誕生を意味する。

 そもそも複製とは単なる増殖である。
 同一人物の一つの名前の元に、実は二人、三人と紛らわしいが区別される別の個体が一人に成り済まして不正に増えることでしかありはしない。

 こういった事はたやすく犯罪――例えばアリバイ工作などに使われるというのみならず、社会を管理する側にとって不都合極まりない事態である。
 複製するという行為それ自体が、法的管理の一単位である《個人》の唯一性への侵害以外の何物でもありえない。

 《シャイロック法》はAという個人の人格を守るために、AのコピーであるBの存在を禁止し、BをAの人格的同一性の侵害者として処刑する。
 ところが《死者の復活》は、逆にコピーであるBを生かしてオリジナルのAを殺すようなものだ。
 オリジナルの他にコピーが同じ名のもとに社会に存在すること自体が違法な同一性の詐称であり、《死者の復活》とは、こうしたA・Bが併存するという違法な状態のなかでたまたまオリジナルであるAが死んでしまったという特殊例でしかない。

 また、近年、高価なパラダイスシステムと超霊媒システムのセットを個人購入し、自分自身の電子の分身――いわば生霊である――を発生させて、奇妙な共同生活を送っているという人種も現れてきていた。こういった場合、オリジナルはコピーを別の人格として認めていることになる。
 
 ところで、生霊の電子霊(《分体〔ドッペルゲンガー〕》と呼ばれている)と死霊の電子霊(《ゾンビ》と近年では俗称される)との間に何の質的差異もありえない。

 このことに気付いている者は《ゾンビ》を単に《生残り〔サバイバー〕》とか《身代り》とか呼んでいる。こうした人々は自分の死が復活されえないものであること、電子霊への転生などありえないということを鋭く意識しているのである。

 死者は死者として死のうちに厳存し、その死を知己親族に悼まれる当然の権利を有する。

 けれども、他人である知己親族にとっては、クローン体と死者の間にはどんな差異も見付け出すことができない。またクローン体にとっても、死者と自分との間にはどんな差異も発見できない。何故なら、記憶の完全な複写が可能となっている以上、そこには意識の完全な連続性が存在するからである。そこには同一人物しか存在しない。

 だが、死んでゆくオリジナルの人間の側から見れば、この内部結束の固い完全無欠な同一性にも拘わらず、クローン体と自分との間には、乗り越えがたい不連続性が残留してしまう。
 まるで一個のとりつく縞もない閉じた球体の外部に自分だけがのけ者にされて排除放逐されているような孤独、誰とも共有されない彼の実存的な孤独が。

 そこにこそ死が到来する。
 彼は恐怖の悲鳴と共にこの死に呑み込まれ、跡形もなく消滅してしまう。
 それは厳粛な悲劇、しかし彼の存在の畏怖すべき尊厳だ。

 死者の死には尊厳が認められなければならない。
 その死はあくまでも一つの掛け替えのない人格の終わりとして、絶対的損失として、生き残る他者たちに対し、哀しみと祈りの供物とを要求するものでなければならない。

 しかし、クローン体と他者たちが生きている者同士で結託するとき、死者は完全にその輪から排除黙殺されることになり、その墓前に花が捧げられることはなくなってしまうであろう。

 何故なら、《彼》が「生きている」ことは「事実」だからである。

 このとき、死者の死はまるきり犬死になってしまう。
 だが、その犬死は、やがて誰もに到来するものであり、それを避ける術はないのだ。

 己れの逃れられぬ宿命的悲劇である死が、このように全く孤独な――否、孤独である以上に見窄らしい無意味さのなかに枯れ尽きてしまうということは、死ぬよりももっと恐ろしいことではないか。

 クローン人間であったピーター・ブラウニングJrも同様にそのやがて来るであろう悪夢を憂慮していたのだった。このクローン人間は、自分が更にクローンされることを恐怖し嫌悪していた。己れの生命を越えて生き延びる人格を許すことができなかった。

 この《シャイロック法》の父は言った。

 《わたしは悪夢の生み出した化け物である。この悪夢がより大きな悪夢を生み出し、わたしの呪われた息子を生む前に、この恐ろしい冷たいガラスの母親を破壊する権利があると信じる。何故ならわたしの息子は必ずやわたしを殺し、わたしの息子はその孫に殺されるだろうから。》

 彼はクローン技術に続いて、記憶複製技術が出現することを見越していたのである。
 だからこそ、まだサイコマトリクスなど夢物語であった当時に、彼は『死ぬ権利』と『自己同一権』などという奇妙な権利をその予防のために、法学者たちと共に作り上げることにあれほど力を注いだのだった。
 もし、彼が現在生きていたならば、《電子霊》を全面消去する法律を作ろうとしたに違いない。
 否、できれば生きている間にも作っておきたかったのではないか。
 無論、まだ存在しもしないものを規制することなどできる訳はなかった。

 けれども彼はできる限りのことはしていったのである。