〈目〉はそれ自体としては〈見ず〉である。
器に汲まれてやっとそれは〈見る目〉となる。

この〈見る目〉が〈瞳〉である。
この〈ひとみ〉が〈富〉をもたらす。

〈富〉とは〈金〉である。
この〈金〉は貨幣のことではなく、
こがね色のもの、黄金のきらめきである命の喜びのことである。
それは願望の成就という出来事を意味する。

瞳なき目は白い。この白い目で見られるのが
〈みず〉であり〈から〉であり〈そら〉である。

〈水〉〈辛〉〈空〉は、〈瑞〉〈甘〉〈天〉の系列に対立している。

特に〈天〉と〈空〉の対立は重視されねばならない。
天の宇宙は生きているが空の宇宙は生きていない。
それは死の世界であり、そらぞらしく空しい虚ろなものである。

  *  *  *

〈金〉が虚しくなるとそれは失われて〈鉄〉になる。
〈鉄〉をなめるとそれは塩辛い。
そして鉄は水に浸けると金のきらめきを失って錆びる。
これは寂しいことである。〈さび〉とは鉄の本質である。

鉄は観念的には金属に属さずむしろ水に属する。

そこは寂れた腐敗の国である。

〈さび〉は〈さぶ〉や〈寒さ〉に通じる。
〈みず〉にしみた金は錆びてきらめきを失って
寂れて錆びる冷たい鉄となる。

これが〈金しみ〉つまり〈悲しみ〉である。
それは空しく虚ろにされた心の死の世界である。

心が死んでいるのは金色の星が失われ、
悲しみによって錆びて失われてしまったからである。

〈天〉はいわば黄金色であるといえる、それは幸福を意味する。
これに対して〈空〉のあらわす無の色は黒鉄色であるといえるだろう。

黒鉄色の無は悪寒を催させる。それは悲しみの色である。

〈悲しみ〉とここにいうのは〈悲〉ということである。
それは〈悲しい〉とすら感じられぬ痛ましい辛さのことであって、
何処にも泣くところのないままその孤独の奥底に重く溜まる
〈見ず〉のうらみのことである。

それは〈心〉に〈非〉ざるもののことだ。
〈悲〉とはまさしく絶望を意味している。
〈悲の器〉というのは破局のことである。

  *  *  *

イツハク・ルーリアのカバラの概念にいう
〈容器の破砕(シェヴィラス・ハ=ケリーム)〉とは
まさにこの〈悲の器〉の観念に該当するものである。

それは神の天地創造の失敗を意味する概念で、
それによって〈悪〉の起源を説明しようとしているものである。

天地創造のときに神は、原人アダム・カドモンの姿で顕現し、
完全に善である世界を創ろうとして余りにも厳格でありすぎた。
過剰に峻厳な正義の実現を要求し過ぎて、
創造の道具であった脆き〈器〉を壊してしまった。
〈器〉は神の厳密な判断力=審判(ディーン)の力に耐え切れなかったのである。

こうして〈器〉は砕け、その破片=殻は
神の怒りのほむらを纏い付かせたままに飛び散り、
底知れぬ闇の深淵に墜ちていった。
そしてその〈器〉の破片=殻から
〈悪〉の穢れた世界、つまり物質の世界が生まれたという。

余りにも厳しすぎる〈正義〉が破局を引き起こして、
思わぬ〈悪〉を創り出してしまうという悲劇の逆説。

このために神の創造の光は堕落して、神から分離し、
いわゆる悪魔たちを生み出してしまう。
砕けた〈器〉が転じて〈鬼〉となるのである。

  *  *  *

ルーリアの破局創造説は象徴表現が込み入っているので一見わかりづらい。
しかし、実際には非常に卑近な問題をメタファーを使って語っているに過ぎない。

それは〈教育〉という暴力への批判なのである。

神秘主義と呼ばれているものを安易に迷信の類いと考えるのは愚かである。
それは多くの場合、現実に根差した所から発した、
支配的イデオロギーとしての宗教の教育=洗脳に対する鋭い批判を含んでいる。

ルーリアは明らかに正統ユダヤ教(タルムード等)という
神秘主義とは言われていない本当に悪辣な神秘主義に対する
痛烈な教育学的・政治学的な内在批判を試みているのである。

この問題は現代の日本でもかなり深刻な形で存在している。
例えば子供のいじめ問題である。
〈教育〉という美名の下に、教師や両親という〈大人〉が
〈子供〉の〈人格〉を狂信的に破壊するという怪奇な暴力が横行している。

ルーリアの創造説が言おうとしている真の問題はそれなのである。
〈神〉を〈大人〉、〈創造〉を〈教育〉、
〈正義〉を〈学問〉や〈躾〉や〈校則〉、
〈器〉を〈子供〉の〈人格〉や〈知能〉、
〈悪〉を〈暴力〉や〈非行〉や〈反抗〉や〈いじめ〉に置き換えれば、
すっきりとよく分かる問題だ。

それは別にユダイズム独自の問題ではない。
人類に普遍的に行き渡っている、そして、
誰もがよく知っているのに見て見ぬふりをしている
最も大きな悪徳の問題なのである。

  *  *  *

ルーリアにおいて砕けた〈器〉はセフィロトと言われている。

カバラはピタゴラスの数秘術の流れを汲んでいるので
万物のアルケーは〈数〉だと考えている。
ちなみに、もう一つのアルケーが神の言葉である〈文字〉で、
それは22個のヘブライアルファベットである。

この万物のアルケーにあたる原数が
一から十までの〈セフィロト〉
(単数形セフィラ/数えるという動詞から派生)であり、
十個の球体で表現される。

球体はところで英語で〈バブル〉とも〈スフィア〉とも言われる。
セフィロトという語自体には〈球〉という意味はないが、
有名な生命の木の図形でセフィロトは円で表現されるために、
文学者はセフィロトの象徴表現としてよく〈球体〉や〈水泡〉を使う。
語源学的に繋がりがあるかどうか知らないが、
セフィロトはいってみれば神の宝玉といってもよいので
音の類似したサファイアでも暗示表現される(それは実はむしろ私の趣味だ)。

ところで、フィリップ・K・ディックに
『砕けた球体』或いは寧ろ『バブル崩壊』と訳すべき表題の小説がある。
わが国のバブル経済の崩壊を予言するかのような
不気味に黙示録的な意味をもった作品である
(ディックは日本に非常に興味をもっていた作家である)が、
この作品は明らかに〈悪〉の起源を説明しようとする
ルーリアの創造説を下敷きにして書かれている。

〈悪〉の形而上学的起源の問題はディックが生涯必死に問い詰め続けたものだった。
「〈悪〉はどこから」という問いに真剣に思想的に立ち向かおうとする者は、
どうしてもどこかでルーリアやゾハールのカバラに
運命的に出会ってそれから強烈な影響を受ける。

ざっと挙げても、レヴィナス、エルンスト・ブロッホ、ラヴクラフト、
クロウリー、フロイト、カント、ドストエフスキー、ブレイク、
そして、スピノザは明らかにルーリアのカバラの黒い系譜に属する人間である。

この黒い系譜は従来余り問題とされてこなかった。
しかしこれほど考察意欲をそそる興味深い系譜はない。

また、確かにそれはいかがわしいが、
一九九五年のオウム真理教事件において
わが国から「悪のメシア」が出現するという
黙示録的出来事の記憶もまだ新しい我々にとって、
このルーリアの神秘説のもつ思想史的問題提起のもつ意味は非常に大きい。

ルーリアのカバラは、
一六六六年にサバタイ・ツヴィという偽メシアを生み出す土壌ともなった。
この黙示録の獣の数字の年に出現した怪人は、背教のメシアとも言われている。
彼は後世のハシディズムやシオニズムにも繋がる
ユダヤ思想史上大きな影響を残した人間だが、
ユダヤ教のメシアとして出現しながらトルコのスルタンに捕らえられ
何とイスラム教に改宗してしまった人物である。

単に予言や神秘主義を
まともな人間の取り組むべきでない
カルト的なものとしてシニカルに退け、
正面切ってそれと対決しないのは思想的怠慢であると
私は常日頃から考えている。

そうしなければ、逆に、下らぬカルト的流言飛語や
インチキ宗教家や頭のおかしいペダントどもによる
世紀末的精神退廃は真に根絶することはできない。

唯一の処方箋はこうした「世界の終末」を巡る様々な言説を差別せず、
すべてを同じ考察の俎上に上げて真剣にそれと取り組むことだ。

私の考えではこうした精神の混迷と矛盾は、
神秘主義と現代思想と日本思想の間に
相互に意見の通わない馬鹿げたパルタージュが
できていることに元凶があるのである。