Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 4-6 幽霊の現象学

 「《虚無》としてのドイツ民族、
 いや、同一民族としての抽象的《人間》の観念だけが生き残るだろう。
 その《人間》は精神的つまり幽霊的存在であればいいのだ。
 プラトンの言い草を皮肉れば、
 《肉体〔ソーマ〕》は《墓場〔セーマ〕》だ。
 こうして《人間》はその歴史の目的即ち終焉に到達し、
 己れの理想を地上に自己実現する。
 しかもそれは《国家》という形態を採る。

 この過程は必然的なものだよ。
 ヘーゲルはそれを知らず知らず立証してしまったのさ。
 『精神現象学』というのは、実は寧ろ『幽霊出現学』と読むべきだろう。
 最後の軍隊〔ラストバタリオン〕、最後の人間〔デアレッツエメンシュ〕とは、
 人間の抽象=構築〔アプストラクツィオン〕
 ――破壊〔デストラクツィォン〕や解体構築〔デコンストラクツィオン〕よりも恐ろしい
 この虚無的構築の末に誕生するのだ。

 それは紛れもなく《人間》だが、その本性は《虚無》、
 この《最も無気味な客人》こそが世界を最終的に支配するだろう。

 人間主義〔ヒューマニズム〕とは
 このような虚無主義〔ニヒリズム〕に外ならない。

 《虚無》という本質的人間が君臨し、
 人間は墓場の墓標としてのみ存在すれば良い。

 それは理想的な管理国家の実現だ。
 現在の管理主義社会のなかに
 既にこの未来の姿は予告されている。

 われわれは毎日少しずつ少しずつ殺されてゆく。
 知=権力によってね。
 その未来の国家でも、やはりコンピュータは稼動し、
 マスメディアは伝達を続け、そして法案は可決され続けていくだろう。

 きみはその国家に国民はもういないと思うかね? 
 いや、いるのさ。
 国民は完全にデータに還元され、
 計算され、列挙され、管理され、記録されて、
 生きていることになっているだろう。
 永遠に生きているだろう。

 その国家は、自分の国民が全員死んでしまっていることを永久に知覚せず、
 その千年王国には毎日、己れを讃える賛美歌さえ歌われ続け、
 光と笑いと歌声は未来永劫止むことはないとさえぼくは思うね。
 そんなに不思議な話じゃない。

 ふん、それよりこれが今の世界と何処が違うというんだね。
 似たようなもんじゃないか。

 そして、こうなることを誰も止められないだろう。
 この社会は既に、誰の手からも離れた、
 非人称的な力によって自動運動しているんだから。

 そこでは人間は皆管理され操作されるだけでどんな抵抗もなしえない。
 この管理された平和とは、巨大な強制収容所でありガス室なのだ。
 そこで人間は無意味な存在として
 ただ己れの死を待つ以外にどんな本当の権利も許されてはいない。
 やがてはいつ死ぬかも国家に決められることになるだろうよ。

 また、こういったホロコースト的状況が
 いつこの偽りの平和という緩やかな形態に飽きて、
 世界大戦争という急速な形態に変わっても不思議はないし、
 またどんな本質的相違もありはしないと思うね。

 ふん、ぼくらの後の世代なんかもう生ける屍みたいにされてるぜ。
 ローティーンはかなり洗脳され、脅え切って、痴呆化が進行してるんだ。

 20世紀末と同じ症状だ。
 無教養で下品で柔順で、
 その癖嫌味な位に不遜に世慣れて
 すれっからしなニヒリスティックな仔羊どもの再来だよ。
 魚の死んだような目をした過剰適応児たちだ。

 この連中は餓鬼の癖に、ぼくらのことを
 悪魔とか社会の落ちこぼれだとか頭から信じ切っている。
 何を言ったって無駄さ。永久に目覚めないだろうよ。

 可哀想なのはハイティーンたちだ。
 この世代は自分の弟たちより頭の中をいじくり回されなかった。
 教育権力のロボトミーが成功しなかったんだ。
 代わりに、まともに社会の矛盾に直面して、殆ど全員が離人症患者さ。

 みんな、世界がまるでガラスを透かした向うに見えるようで
 実体感が涌かないとか、自分が自分じゃなくなったようで変だとか、
 何もかもお化けみたいに見えて気味が悪いとか、
 全てが空しく無意味にみえるとか訴えてる。

 《ガラスを透かした向こうに見える》
 ――管理社会の人間疎外を単に表現した台詞だろうかね?
 寧ろぼくらが造られた、レトルトのガラスの壁のことを
 言っているような気がするんだよ。
 そしてそのレトルトのなかにぼくらはまだ閉じ込められているんだ。

 揺籠から墓場までホムンクルスはレトルトの中で一生を終える。
 別に試験管ベビー説をきみが信じなくてもいいんだ。
 そんなことは実はどうでもいいことなんだよ。

 どちらにせよ同じことだろう? 
 
 この社会自体がそうしたガラスの監獄なんだ。
 その中にいれば全員試験管ベビーと同じさ。
 百目鬼、きみも例外じゃないんだぞ。

 まあ、ともかくだ、教育が失敗したせいで
 非常に頭脳優秀なままに放置された彼らハイティーンは絶望しきっていて、
 自殺する者や発狂する者が跡を絶たない。

 きみはどうせ余りこんなことは知らないだろう?
 こういったことはもうこの国のTVメディアは報道しないんだよ。
 荒んだ現実を何も知らない子供の目に触れさせては、
 人格の形成に悪い影響があると抜かすんだ。

 その癖、世界情勢がどうなっているとか、
 経済はどうだとか株はどうだとか、
 最新流行の服はどうだとか、
 科学技術はここまで発展したとか、
 そういった実はどうでもいい情報ばかりが
 洪水のように輝かしく溢れ返っているのだ。

 それがこの国の報道機関の自主規制だというのだから滑稽な話だ!」

 この話には百目鬼自身も少しばかり耳が痛かった。
 メディアが現実を隠蔽するものとして機能し始めているという事実――しかもその堕落の正当化の理由に、話題性や視聴率競争と並んで、児童心理への影響という《子供》なる人質を盾に取ったものが多いということへの批判は、当時の日本でも盛んになされていた。

 エックハルトの言葉が事実だとすれば、ドイツは確かに日本より進んでいる。
 それは日本の未来の姿なのかもしれないと思い、百目鬼はぞっとする。
 だが、更にぞっとするのは、日本の現状が実はどうなっているかを新聞人である百目鬼自身さえ本当は知らないのかもしれないという思いだった。

 日本は表面上は、学生運動が小火のように各地に点在するドイツなどと比べて遥かに静穏に見えていた。けれども、その静けさ――反抗も暴動も不平の声もない小綺麗で明るい幾つもの都市の平和な繁栄の姿は、寧ろずっと管理の進行した社会であり、エックハルトの語ったような未来の亡霊国家の清潔な平和さに実は更に一歩踏み出した姿であるのかも知れない。

 現実の隠蔽がもっと巧妙で陰険なかたちで進行してしまっているとしたら、その中にいる誰が本当の現実を知っているといえるのだろう?

 世界は平和になったと言われている。
 だが、その平和が演出された平和でないとどうして言い切ることができるだろう。

 けれども人間は目に見えるものを信じる外にない。
 だが、人間は誰もが平和を見たいと思うものだ。
 本当は、見たいものを見ているだけなのかも知れない。

 自分のついた嘘に自分で騙される悪夢のような世界。
 それが悪夢であるのは、夢がひどい夢だからなのではなく、夢を見ているというその逃れられない構造そのものが悪夢なのだ。

 メディアと大衆は合わせ鏡のようなもの――互いが互いの現実の根拠になってしまっている。
 とすれば、根拠そのものが宙に浮くことになりはしないだろうか。

 メディアが大衆を操作するとよく言われる。
 だが、大衆もまたメディアを操作する。

 それは無限に続いていって不意に自分にループして戻ってくる伝言ゲームにも似ている。
 AはBに嘘をつく。BはCに嘘とは知らずに同じ話をし……やがてZがAに元々彼のした話を大勢の人の噂だがこうなんだと言って告げる。
 そのときAはそれが本当は元々自分のついた嘘なのだと見抜けるだろうか。逆に信じこんでしまうのではないか。

 或いは、嘘というのが、大してその時には根拠のない思い付きであるとしたならばどうか。
 Aは自分だけがそう思っているのではないかと孤独な不安に駆られながらBにその話をしたかもしれない。ところがZから翌日、同じことをみんなが言っていると聞かされるとしたら。Aは自分の思い付きがそのとき根拠を得たと錯覚する。
 このとき情報の元を辿ることは不可能になる。

 この社会ではそういった幽霊のような現実が毎日生まれているのかもしれない。
 誰も操作していないのに全員が操作されている恐ろしい社会。
 しかも情報は洪水のように流れ、真偽を確かめる時間もなく、情報それ自身が伝達された時点で蓄積され、やがて次に来る情報の真偽の判別の根拠として用いられてしまう迂闊さ。

 百目鬼には寒気がした。