童謡のホタルの歌は、塩辛き水と甘い水の区別を歌っている。
あっちの水は辛く、こっちの水は甘い。
この甘い水は〈甘露〉または〈雨水〉のことで、命を育む。
これがエアの甘い水、浄水または淡水である。
この〈みず〉を〈みつ〉といい、
それは満ちるもの、〈蜂蜜〉である。
〈蜂〉とは〈鉢〉の意である。
〈鉢〉に汲まれた〈みず〉はその器に満ちる。
〈見ず〉である〈みず〉に対立する
この〈みつ〉である〈みず〉は〈見つ〉の意である。
つまり神(ホタル)はそれを見て「よし」とされ満足された。
従ってそこには命が満ちる。
これがいわゆる〈甘え〉の原義である。
〈あまえる〉とは〈あま〉を〈得る〉こと、
天の恵みを受けて生きるということである。
またそれは願いが〈かなう〉ということである。
だが、願いが〈かなえ〉られなければ、それは〈かなしい〉。
* * *
〈かな〉は〈かね〉つまり〈金〉に通じる。
〈かなう〉とは〈金を得る〉ということである。
〈金〉は〈天〉より降ってくる恵みである。
〈めぐみ〉とは空虚な器である鼎に神の目を汲むことである。
この器に水を掬って神の目を汲む行為は、
それ自体において、神の目を創造することである。
また、それは本来の意味での〈救済〉を意味する。
〈救う〉とは水を〈掬う〉の転じたものである。
これは別に日本語学の問題ではない。
これと同様の思想は、
タロットカードの一七番目の札である〈星〉に描かれていて、
そこから読み取ることができるものである。
この札は〈水瓶座〉つまり〈器〉の星座に対応し、
「希望の実現」や「魂の救済」、「恵みの雨」などを意味する。
そこには〈オシリスの踝〉から流れ出すといわれる
ナイルの川の流れから
水瓶で水を汲む裸の女神
(イシスともネフティスともいわれる)が描かれている。
この女神は普通は二つの水瓶を川の流れに傾けた姿で描かれる。
うっかりするとこの両方の水瓶から
水が川へと流れ出ているのだと見てしまいやすい。
実際にそのように解釈してしまっている研究者も少なくない。
しかし私はそれは間違いだと思う。
それならば水瓶は一つだけで良い。
これはむしろ雨水の循環と水を分ける行為を表現しているのである。
一方の水瓶へと川の水は上ってゆき、
他方の水瓶から川へと流れ込んでゆく。
両手に水瓶をもつ女神は、天の女神を意味し、
器に汲まれた清らかな水の面に
きらきらと顕現する〈みずみずしい人〉の姿である。
その頭上に一個の大きな〈星〉が
七つの小さな〈星〉を伴ってきらめく。
古くからこの大きな〈星〉は
〈救済者〉の出現を告げるベツレヘムの星と言われた。
つまりその〈水瓶座の女〉が真の意味での〈救済者〉なのである。
頭上にきらめく〈星〉は、私のいう〈金〉に対応している。
つまり〈金=星〉としての金星である。
それは〈愛〉と〈美〉を象徴する永遠の女神の星である。
〈星〉としての星は金色にきらめくものである。
〈星〉は〈ほしい〉に通底している。
〈金星〉とは〈ほしい〉が〈かなう〉ということである。
それは器のなかに現れている。
美のきらめきのなかで神人合一が成就している。
神はそこに居り、神みずからへと現れている。
それが〈人〉であり〈子〉である。
それは人の子にして神の子である。
救済者とはそれである。
神の〈見ず〉を救うものは
自己自身を〈みずから〉掬い上げ、器の内に〈わたし〉を見るのである。
* * *
器に神の〈見ず〉を汲み取ると
その器そのものが神の目となって〈人〉を見る。
この〈人〉を古代インドではプルシャといい、
また、アートマンと呼んでいた。
それは麗しいものである。
〈神〉の概念は元々、自分自身の発見を意味しているのである。
〈神〉は己れみずからを見ずにはいない。
〈神〉、それは誰あろう、〈わたし〉自らのことである。
* * *
普通に言われる無神論・有神論という言葉は
実は非常に莫迦げているのである。
そもそも〈神〉というのがどういう概念であるのかを忘れて
見当外れな議論をしているに過ぎない。
宗教家も科学者もどちらも愚かしい迷信家なのである。
ハイデガーは〈存在〉概念の意味の自明視を
存在忘却といって批判したが、
それ以上に問題なのは〈神〉の概念意味の自明視とその忘却である。
* * *
もうお判りのように、私が〈神〉と言っているのは
特定宗教の偶像的崇拝対象(信仰形態)としての
「いわゆる『神様』」のことではなく、
きわめて現実的で知的な概念としての〈神〉のことである。
そもそも〈神〉とは何を意味するかこそが問題なのであり、
神とは何かとか何が神かとかは全く問題ではない。
そんなものは全て死せる偶像である
(それは偶像崇拝を単に教義の上で否定しているだけの
キリスト教やイスラム教のような一神教の神観念をも含む)。
〈神〉とは宗教学的問題ではなくてむしろ政治学的問題であり、
来世への愚かな空想の問題ではなくて
むしろ現世における鋭利に知的な問題なのだ。
従って私が〈神〉について語ることは、
いささかも特定宗教団体を利することにはならない。
逆にあらゆる〈宗教〉をラジカルに批判することを含むものである。
しかし、私は阿呆な無神論者のように
宗教を頭ごなしに否定しているのではない。
あらゆる人は神を信じ神と共に生きる当然の権利を有する。
人の心を迷わせて〈神〉との出会いを妨げる
ありとあらゆる迷妄を徹底的に破壊してやろうというのである。
もはや〈神〉は〈神秘〉ではない。
私はあらゆる宗教家と無神論者が結託して
神秘のベールに包んでしまった〈神〉を
その暗闇のとばりから引き出してやろうというのだ。
私は宗教家ではないが、
この私こそが隠れたる〈神〉を表に引き出し、
〈神〉をその欺瞞の死から復活させる人間となるのである。
あっちの水は辛く、こっちの水は甘い。
この甘い水は〈甘露〉または〈雨水〉のことで、命を育む。
これがエアの甘い水、浄水または淡水である。
この〈みず〉を〈みつ〉といい、
それは満ちるもの、〈蜂蜜〉である。
〈蜂〉とは〈鉢〉の意である。
〈鉢〉に汲まれた〈みず〉はその器に満ちる。
〈見ず〉である〈みず〉に対立する
この〈みつ〉である〈みず〉は〈見つ〉の意である。
つまり神(ホタル)はそれを見て「よし」とされ満足された。
従ってそこには命が満ちる。
これがいわゆる〈甘え〉の原義である。
〈あまえる〉とは〈あま〉を〈得る〉こと、
天の恵みを受けて生きるということである。
またそれは願いが〈かなう〉ということである。
だが、願いが〈かなえ〉られなければ、それは〈かなしい〉。
* * *
〈かな〉は〈かね〉つまり〈金〉に通じる。
〈かなう〉とは〈金を得る〉ということである。
〈金〉は〈天〉より降ってくる恵みである。
〈めぐみ〉とは空虚な器である鼎に神の目を汲むことである。
この器に水を掬って神の目を汲む行為は、
それ自体において、神の目を創造することである。
また、それは本来の意味での〈救済〉を意味する。
〈救う〉とは水を〈掬う〉の転じたものである。
これは別に日本語学の問題ではない。
これと同様の思想は、
タロットカードの一七番目の札である〈星〉に描かれていて、
そこから読み取ることができるものである。
この札は〈水瓶座〉つまり〈器〉の星座に対応し、
「希望の実現」や「魂の救済」、「恵みの雨」などを意味する。
そこには〈オシリスの踝〉から流れ出すといわれる
ナイルの川の流れから
水瓶で水を汲む裸の女神
(イシスともネフティスともいわれる)が描かれている。
この女神は普通は二つの水瓶を川の流れに傾けた姿で描かれる。
うっかりするとこの両方の水瓶から
水が川へと流れ出ているのだと見てしまいやすい。
実際にそのように解釈してしまっている研究者も少なくない。
しかし私はそれは間違いだと思う。
それならば水瓶は一つだけで良い。
これはむしろ雨水の循環と水を分ける行為を表現しているのである。
一方の水瓶へと川の水は上ってゆき、
他方の水瓶から川へと流れ込んでゆく。
両手に水瓶をもつ女神は、天の女神を意味し、
器に汲まれた清らかな水の面に
きらきらと顕現する〈みずみずしい人〉の姿である。
その頭上に一個の大きな〈星〉が
七つの小さな〈星〉を伴ってきらめく。
古くからこの大きな〈星〉は
〈救済者〉の出現を告げるベツレヘムの星と言われた。
つまりその〈水瓶座の女〉が真の意味での〈救済者〉なのである。
頭上にきらめく〈星〉は、私のいう〈金〉に対応している。
つまり〈金=星〉としての金星である。
それは〈愛〉と〈美〉を象徴する永遠の女神の星である。
〈星〉としての星は金色にきらめくものである。
〈星〉は〈ほしい〉に通底している。
〈金星〉とは〈ほしい〉が〈かなう〉ということである。
それは器のなかに現れている。
美のきらめきのなかで神人合一が成就している。
神はそこに居り、神みずからへと現れている。
それが〈人〉であり〈子〉である。
それは人の子にして神の子である。
救済者とはそれである。
神の〈見ず〉を救うものは
自己自身を〈みずから〉掬い上げ、器の内に〈わたし〉を見るのである。
* * *
器に神の〈見ず〉を汲み取ると
その器そのものが神の目となって〈人〉を見る。
この〈人〉を古代インドではプルシャといい、
また、アートマンと呼んでいた。
それは麗しいものである。
〈神〉の概念は元々、自分自身の発見を意味しているのである。
〈神〉は己れみずからを見ずにはいない。
〈神〉、それは誰あろう、〈わたし〉自らのことである。
* * *
普通に言われる無神論・有神論という言葉は
実は非常に莫迦げているのである。
そもそも〈神〉というのがどういう概念であるのかを忘れて
見当外れな議論をしているに過ぎない。
宗教家も科学者もどちらも愚かしい迷信家なのである。
ハイデガーは〈存在〉概念の意味の自明視を
存在忘却といって批判したが、
それ以上に問題なのは〈神〉の概念意味の自明視とその忘却である。
* * *
もうお判りのように、私が〈神〉と言っているのは
特定宗教の偶像的崇拝対象(信仰形態)としての
「いわゆる『神様』」のことではなく、
きわめて現実的で知的な概念としての〈神〉のことである。
そもそも〈神〉とは何を意味するかこそが問題なのであり、
神とは何かとか何が神かとかは全く問題ではない。
そんなものは全て死せる偶像である
(それは偶像崇拝を単に教義の上で否定しているだけの
キリスト教やイスラム教のような一神教の神観念をも含む)。
〈神〉とは宗教学的問題ではなくてむしろ政治学的問題であり、
来世への愚かな空想の問題ではなくて
むしろ現世における鋭利に知的な問題なのだ。
従って私が〈神〉について語ることは、
いささかも特定宗教団体を利することにはならない。
逆にあらゆる〈宗教〉をラジカルに批判することを含むものである。
しかし、私は阿呆な無神論者のように
宗教を頭ごなしに否定しているのではない。
あらゆる人は神を信じ神と共に生きる当然の権利を有する。
人の心を迷わせて〈神〉との出会いを妨げる
ありとあらゆる迷妄を徹底的に破壊してやろうというのである。
もはや〈神〉は〈神秘〉ではない。
私はあらゆる宗教家と無神論者が結託して
神秘のベールに包んでしまった〈神〉を
その暗闇のとばりから引き出してやろうというのだ。
私は宗教家ではないが、
この私こそが隠れたる〈神〉を表に引き出し、
〈神〉をその欺瞞の死から復活させる人間となるのである。