〈わたし〉が〈神〉の見目に浄らかに〈あらわれる〉とは
己れを露わに現しつつ〈神〉なる王の〈ひとみ〉をすすぎ、
自らもまたその〈神〉の〈ひとみ〉の奇麗な泉の水によって
〈みそぎ〉するということだ。

〈みそぎ〉とは水の洗礼、バプテスマ、
それはからだを洗うということである。

からだを洗う者は裸である。
そしてその裸体のまま
神の〈ひとみ〉の水のなかから〈みずから〉現れる。
この〈みずから〉現れる人はみずみずしい人である。

  *  *  *

〈みず〉とは〈見ず〉ということである。
〈みずみずしい〉とは〈見ず見ずしい〉ということである。
〈見ず見ずしい〉とは無視を無視する清々しい態度である。
見られていないことを見ないことによって
人は神の〈ひとみ〉にみずみずしく現れるのである。

しかし、それは逆に神がそれ以前には
〈われ〉を見ずにいたということをも告げているのである。

つまり神は《われ在り》において
〈われ〉から〈そら〉へと
そらぞらしく立ち去ろうという風情だったのである。

それは〈われ〉を見捨てて顧みないということ、
〈見ず〉ということである。

神が自ら在る、自在であるというのは、
〈われ〉を〈見ず〉して〈そら〉に在るということである。
〈見ず〉とは神のうわの〈そら〉への立ち去りである。

すると〈われ〉は割れてしまい、分裂する。
〈われ〉は〈別れ〉となる。

  *  *  *

〈別れ〉或いは〈わかれ〉とは、
〈われ〉から〈かれ〉が離れてゆく風情である。

それは〈われ〉にとって危機的な瞬間である。
〈われ〉がすっかり割られると、
〈われ〉そのものが枯れて〈かれ〉と化してしまう。

〈そら〉へと立ち別れていった〈かれ〉、
(神)もそうすると〈かれ〉たりえなくなって、〈それ〉となる。
〈それ〉とは〈そら〉の転化であり、
〈かれ〉が〈そら〉に食われて
〈そらぞらしく〉なりきってしまったその成れの果てである。

この状態が〈みず〉である。
〈みず〉とは〈そらぞらしい〉ものであって、
〈みずみずしい〉ものに対立している。

〈みず〉とはまず〈枯れ〉たものなのである。

〈みず〉とは〈かれ〉のことである。
〈かれ〉とは、〈かれ〉みずからを失った〈かれ〉なのである。

  *  *  *

即ち、一般に三人称単数の代名詞とされている〈かれ〉は
むしろ、〈われ〉の枯れ果てた精神荒廃と
自己喪失を意味する一人称であると考えられる。

〈われ〉の〈かれはて〉である〈かれ〉は
〈みずから〉なき〈みずかれ〉、自己なき枯渇であり、
孤立したそれ自体としての〈われ〉をむしろ意味するのだ。

それは〈われ〉が枯れてしまったもの、
誰とも関係を持たず、誰にも見い出されていないもののことである。

〈われ〉の底がひび割れて
本当に〈われ〉になってしまうと
それが〈かれ〉になる。

この〈かれ〉なる〈われ〉は
〈そらぞらしく〉なりきってしまった〈みず〉であり、
ちょうど器の底が破れて
中の水がすっかり抜け落ちてしまったように
干からびたものである。

破れて抜け落ちた〈みず〉は〈なみだ〉となって
その壊れ甕となった心の廃墟を荒涼とした砂漠としながら、
胸のなかに黒く冷たく滴り落ちて悲しみの池をつくる。

これは塩辛き〈みずたまり〉、ティアマートの池、ヒュドラの池である。

  *  *  *

〈なみだ〉の〈みず〉は〈なみだつ〉海水である。

それは洪水をもたらし、万物を泣き枯らして、
不毛な〈なきから〉即ち〈なきがら〉とする。
これがいわゆる〈混沌〉である。

この〈みずたまり〉は〈みず〉の〈だまり〉である。
それは黙りこくった陰気な沈黙である。

人に無視されたものは黙りこくり、重苦しい沈黙の闇に落ちる。

〈われ〉を余りに割り切ってしまうと心の底が破局して底抜けになる。
〈なみだ〉は外なる外に溢れ出ないで、
内の底を打ち破った内の底抜けの無底の外にこぼれこむ。

この底無しにはそれでも底がある。それを〈奈落〉という。
これは破壊された心の地獄で、
〈なみだ〉はだまってたまる一方で、誰もそれを掬えない。
器を壊してしまっているからである。

〈器〉は〈内輪〉に通じる。
無視するとは内輪に入れぬこと、
その〈なみだ〉を汲み取らぬことであり、
人を在って無きがごとしものにすることである。

すると〈われ〉は〈かれ〉る。
しかし〈なみだ〉は〈みずだまる〉。
それは〈にがい〉塩辛いことである。

  *  *  *

〈塩〉は〈穢れ〉を祓うお清めによく使われる物質である。
それは苦く辛いものである。
それは何かを清めると同時に実際には穢れをもつくっている。

〈塩〉と〈水〉は同じものである。

〈みず〉は〈から〉を含みもっている。
この〈から〉が〈塩〉であり、また〈殻〉である。

  *  *  *

器が壊れると〈みず〉は流れ去って、
器の破片である〈殻〉を跡形に残す。
この〈みず〉から出て来た残留物が
その〈みず〉のエッセンスと考えられたのが〈塩〉である。

それは〈みず〉の捉え損ねである。

海水や涙が干上がると、水の流出の痕跡に塩が残る。
それはからからに乾いている。

〈みず〉とは〈かわく〉ものである。

〈かわく〉とは流れ去るということで〈川〉や〈河〉に通底している。
〈みず〉は〈かわ〉となって流れて〈かわく〉。
すると干上がった川床が、乾いたものとして現れてくる。

この荒れ果てた川の痕跡である溝が
川の実体と考えられたのが川としての〈かわ〉である。
また涙が流れ去った後に干上がって残っているのが
皮としての〈かわ〉である。

〈川〉や〈皮〉としての〈かわ〉は〈から〉と同じで、
〈うち〉である〈うつわ〉、そして
〈うちわ〉のうちこわされたもの、残骸のことである。

また〈かわり-はてた〉もののことをいう。

この〈うちこわされたもの〉〈かわりはてたもの〉は〈かけら〉である。
〈かけら〉とは欠けたもののことで、欠性的な無である。

これは常に暴かれたものとしてある。
それは確かにあるが、何かで無いという意味で、
無としての無を逆に露出している。

それは〈みず〉としての無を露呈しているのだ。
それは〈かわ〉であり〈から〉である。

欠性的無は、〈皮〉や〈殻〉や
〈変〉や〈破壊〉や〈痕跡〉や
〈乾き〉や〈空虚〉や〈欠片〉として
〈みず〉としての無、
神に見捨てられたものとしての無の観念を
我々に突き付ける恐ろしい概念である。

この概念の核心的意味は人格の破壊である。恐怖の様相である。
これは〈みず〉のつかみどころのなさを表している。

〈みず〉はそれなくしては人が生きられぬ命の糧であるが、
そのつかみどころのなさ(欠性)によって溺れる人を呑み込み、
また常に欠乏し流れ去って失われてゆくものである。

〈みず〉の本質は不足である。
遺棄である。追放である。堕落である。
それはそのままでは人を見捨てて見殺しにするものである。

〈みず〉のつかみどころのなさは
それ自体において根源的な悪である。残酷である。殺人的である。

  *  *  *

さて、〈われ〉はからだの谷であり、
それだけでは有り得ざるもの、薄暗き空虚の谷間である。
〈われ〉は〈から〉であり、それだけではただ〈かれ〉ている。
それ故に〈われ〉は〈彼〉に〈こがれ〉る。〈そこ〉には誰も居ないが故に。

〈神〉そこに居を定めざれば、その谷底は〈いぬ〉の谷である。

〈いぬ〉は居らぬ者であり、人に非ざる者である。
この〈いぬ〉は遠吠えて〈なく〉。
〈なく〉とは〈神〉無きが故にである。

しかし〈なく〉とは〈呼ぶ〉ことである。
ここに〈居れ〉ということである。
このとき〈いぬ〉は〈この俺〉を持つことになるだろう。