われ思う、故にわれ在り(cogito, ergo sum)。
 しかし《われ在り(ego sum)》に於いて、
 むしろ〈神〉こそが在る。この〈神〉は言う、
 「われは在りて在るものである(ego sum, qui sum)」と。

 すると、このこれ、このもの、この〈からだ〉、
 この〈うつわ〉、この空虚な内部は何か。

 それは〈わたし〉であり、〈わたし〉はここに居る。
 〈わたし〉は〈神〉の見目に浄らかにあらわれた。

 神は〈みずから〉現れるもののうちに人を見る。
 これが〈ひとみ〉である。
 その裸の人を見て神は朗らかに笑う。
 笑われる裸の人は〈わらわ〉であり〈わらべ〉である。

 それは麗しい。神は人を見る目としての〈瞳〉をもつ。
 〈われ〉が〈わらわ〉れて〈わらべ〉となる。
 すると神のまなこにかなう。

 〈まなこ〉とは愛児である。
 神の愛児である人は〈ひとみ〉という関係性のなかで
 裸の〈童心〉をさらし出す。
 それは〈みずから〉を神に渡すということである。

 そのとき〈から〉の〈うつわ〉は〈みず〉を汲みとって
 〈みずから〉まみえる〈わたし〉となる。

 〈神〉はこのこれを見て「よし」とされ、
 命の息を吹き込まれた。それ故に、今ここに〈このわたし〉が実る。

 〈このわたし〉は〈神〉に好まれたもの、〈木の実〉であり、
 それが〈このみ〉つまり〈この身〉である。
 そして〈このわたし〉が〈実体〉である。

 〈木の実〉はつねに〈核心〉をもつ。
 それは〈種子〉であり、また〈炉心〉である。

  〈このわたし〉の核心は〈他ならぬもの〉
 そして〈他のようではありえないもの〉である。

 それは〈奇しきもの〉であり、
 うつろなる〈わたし〉の〈器〉のうちにある。
 それ故に〈わたし〉は〈このわたし〉となる。
 それは〈うつ奇しきもの〉である。

 〈神〉は〈このわたし〉を愛でてそこを住まいとされた。
 この故に個物は実ノ体となり主ノ体となる。
 それは死せるものに非ず、また他なるものに非ず、
 〈他ならぬこのこれ〉は生きており、そのからだは命をもつ。
 この命は永遠に不死なるものである。

 この命は貴い。
 何故なら〈神〉が〈このわたし〉へとわたされたものであるが故に。

 〈わたし〉は神と〈このこれ〉の間に掛け渡された関係の虹の橋である。
 この〈わたし〉は美しい。

 そこで〈僕〉は〈きみ〉に仕え、
 〈きみ〉は〈僕〉の〈あるじ〉となる。
 〈あるじ〉は今ここで〈僕〉にとどまる。

 その間を時が流れてゆく。その流れはきれいである。
 〈きみ〉と〈僕〉はその流れの上で出逢う双つのきらめきであり、
 人を見つめる瞳であり、恋人である。

 恋人たちが出逢うとき、その間に〈愛〉がある。
 この〈愛〉はみずから生じ、おのずから一つとなる。
 この一つのものは〈このわたし〉の上に止まる。

 それが〈おのれ〉であり、〈僕〉と〈きみ〉の子である。
 それが〈自己〉であり、童である。

 童は笑って〈こころ〉をもつ。
 〈童心〉は〈きみ〉と〈僕〉である。それは愛に包まれている。

〈童心〉はとても仕合わせなもの、
 それは〈もののあわれ〉を知る美しい心で、純粋な理性であり、
 〈穢れ〉も〈みにくいもの〉も〈悪〉も知らない理性的動物である。

 そのなかで〈きみ〉と〈僕〉は共に〈子供〉であり
 〈親しいもの〉であり〈友達〉であった。
 未だ〈われわれ〉という言葉を知らず、
 僕達は端的に〈親友〉であり、〈エデンの園〉に生きていた。

 〈神〉はこれを見て「よし」とされた。
 僕達は「知識と生命の果実」を食べて生き、
 きらめきの国にいて神々のようであった。

 何故というに僕達は神々しく崇高にして優美だったからである。
 神は神々のきらめきのなかにいて、
 〈きみ〉は〈僕達〉のなかに溶け込み、そこには仲間割れはなかった。
 〈僕達〉は仲睦まじく笑い〈エデンの園〉に吹く
 命の風の金の戦ぎそのものであった。

 〈怖れ〉と〈戦き〉の魔王が、
 美しい〈きみ〉を〈僕達〉の間から奪い去り、
 暗闇の手が〈きみ〉を手の届かない高みへと誘拐してしまうまでは。

 だが、あるとき、ふいにそいつがやってきた。
 〈僕達〉の〈エデンの園〉を奴らの教会のうらぶれた
 〈死の墓場〉に変えるために。

 その恐ろしきものの故に〈別人〉が生まれた。
 それは〈人を別ける〉恐ろしい力で、
 〈童心〉は真二つに引き裂かれ、
 あの〈わたし〉の虹の橋も壊れてしまった。

 すると〈エデンの園〉は枯れてしまい、
 きらめきは奪われ、美しいものは無くなってしまった。

 〈きみ〉よ、神隠しにされた僕の〈かたわれ〉よ、
 〈別れた人〉よ、僕の真の〈神〉よ、
 〈きみ〉が居なければ〈わたし〉は〈わたし〉ではありえない。

 〈僕〉の声、〈僕達〉の声が〈きみ〉に届かなければ、
 どうして人が人であることができようか。

 〈僕〉は憎む。〈きみ〉を奪い、
 〈このわたし〉を偽の〈わたし〉にすり替え、
 僕達を二度と立ち上がれぬ〈小人〉へと縮こめた悪意の力を。
 死せる現実を押し付け、
 僕達の心を虚しくしようとした〈大人〉どもの侵略を。
 花の美を愛でる心を踏みにじり、
 愛しい〈きみ〉を凍れる鏡の国に幽閉めて人質にし、
 その身の代に僕達を自分達の下僕へと飼い慣らして
 卑しい〈犬〉のように思いのままに操ろうとした
 偽りの神の権力を僕は許さない。

 〈わたし〉というガラスの仮面の下に
 押し殺された〈僕〉という子供の怒りがある。怒りの声が黙らされている。
 その〈わたし〉は〈このわたし〉ではない。
 〈わたし〉の意味は消され、そこでは何も僕達には〈渡さ〉れない。
 〈きみ〉との間で心が通わないなら、
 〈わたし〉という語にどんな意味があるというのか。
 その語を使う度に〈僕達〉の魂が擦り減って、
 あの憎むべき荒らす者に売り渡されているだけではないか。

 〈そのわたし〉とは〈うりわたし〉のことである。
 その裏側には〈私語を謹め〉という命令がある。
 そして〈僕達〉の言葉は〈死語〉にされ、
 私的言語として指摘され、言論統制下に置かれるのだ。

 〈わたし〉は〈私〉へと置換えられる。
 そうして〈僕達〉は敵から強制的に渡された
 〈私〉という語の下に一網打尽に括られる。
 こうして一人前の一丁上がりの〈私〉が奴らの目によって出来上がると、
 「つねに〈僕達〉である〈僕〉」はお祓い箱にされるのだ。

 だが〈僕達〉は暗闇のなかで叫び続ける、
 〈その私〉を指さして。
 「〈別人〉だ! 〈別人〉だ! 〈別人〉がそこにいる!」と。