最も単純で基本的な存在論的差異は
「何かである」という場合の「ある」と
「何かがある」という場合の「ある」の間の
「ある」の意味の違いである。

 伝統的な西欧形而上学では、
 これを本質ないし本質存在(essentia)と
 実存ないし現実存在(existentia)の区別という風に捉えている。
 つまり〈「である」存在〉が本質といわれ、
 〈「がある」存在〉が実存といわれたのである。

 今日、一般に存在論的差異というと
 ハイデガーの存在論における存在者と存在の間の区別のことを意味する。
 これは「何かである」と「何かがある」の意味の違いを
 伝統的な形而上学における〈本質/実存〉の存在論的差異とは
 違う仕方で捉え直したものである。

 「何かである」という場合には「何か」という主語に問題の力点が置かれ、
 「何かがある」という場合には「ある」という述語に力点が置かれている。
 つまり「何かである」と「何かがある」の存在の意味の違いは、
 結局は「何か」(存在者)と「ある」(存在)の違いに還元することができる。

 ハイデガーはそのように考えることによって
 伝統的形而上学の〈本質/実存〉の対立を
 〈存在者/存在〉の対立に置き換えたのである。
 それは存在論の問題をハイデガーが整理し直したかったからに他ならない。

 そしてこのようにわたしが書くことも
 ハイデガーとは別の仕方で存在論の問題を整理し直したいからである。

 ハイデガーは〈「何かである」/「何かがある」〉の存在論的差異を、
 主語と述語の文法的区別の問題にすりかえている。
 それが〈存在者/存在〉の差異である。

 しかし、そうすることによって
 ハイデガーが本当に問題にしようとしていたのは
 〈実体/存在〉の存在論的差異である。

 〈実体〉の思想はアリストテレスに由来する。
 アリストテレスはイデアールなものを真実在と考えるプラトンに反対して、
 具体的な個物ないし個体が真実在つまり〈実体〉であると考えた。
 そこで〈実体〉というのは
 主語となって述語とはなりえないもののことをいう。

 例えば「ソクラテスは人間である」というとき、
 主語の「ソクラテス」が実体であり、
 述語の「人間」はこの実体=主語に帰属する
 偶有性ないし属性であると考えられた。

 偶有性は実体から切り離されては
 それだけで独立自存することのできないものであり、
 真に実在するものとは看做しえない。

 アリストテレスの存在論は実体論であり、
 また彼の創設した古典論理学の主語主義に緊密に結び付いている。

 実体と偶有性の区別は、
 文または命題における主語と述語の区別に必ず対応し、
 従って命題の構造を分析することによって
 実体をつかまえることができるとアリストテレスは考えていた。

 例えば「ソクラテスは人間である」において
 述語(偶有性)であった「人間」のような類概念は
 「人間は死すべきものである」のような文の場合には
 主語(実体)の位置にくることもある。

 このような主語になったり述語になったりするものを
 アリストテレスは
 本来の実体である第一実体とは区別して
 第二実体と呼んでいるが、
 そのような相対的な実体を
 アリストテレスは真に実在する実体であるとは認めていない。

 アリストテレスにとって実体というのは
 例えばソクラテスというような固有名で言い表される個体のことである。

 しかし、ハイデガーが
 彼の存在論において問題にしようとしている〈存在〉は、
 アリストテレスの〈実体〉に反して、
 述語となって決して主語とはなりえないもののことをいう。
 つまり〈実体〉では決してありえないもの、
 いわば実体化不可能なもののことを〈存在〉といっているのである。

 しかしこの〈実体〉としては出現することのないものこそが
 〈実体〉をしてそこに在らしめている。
 それは〈実体〉である存在者を離れてはありえないが、
 かといって〈実体〉に帰属する偶有性や属性であるということもできない。
 逆に〈実体〉こそが〈存在〉なしにはありえないものである。

 アリストテレスにとっては「何が真に存在するか」だけが問題であり、
 「存在するとは何か」つまり存在の意味・存在の本質は問われていない。
 しかしそのことこそが存在論的にはより重要な問題であるはずだ
 ということをハイデガーは問題提起しようとしたのである。

 〈実体〉にばかり目を奪われていては〈存在〉は見えない。
 〈実体〉は〈存在〉を塞いでしまう。
 つまりそれがハイデガーの批判する
 存在の自明視であり存在忘却ということである。

 だがこのアリストテレスとハイデガーの対立を反映した
 〈実体/存在〉の存在論的差異は
 〈「何かである」/「何かがある」〉のどちらを
 「ある」の本来の意味とみるかの
 存在論的見解の差異の問題に逆に還元可能なのだ。

 ハイデガーを誤読しているというかどで
 ハイデガー自身から告発されているサルトルの評判の悪いテーゼ
 「実存は本質に先行する」は実は案外と当たっているのである。
 それどころかそれは正読よりも深遠な誤読であったと考えた方がいい。

 サルトルは『存在と時間』を
 単に表面的な逐語的な正確さにおいて読んだのではなくて、
 それがどういう問題設定においてあるのかを見据えながら
 本質を抉る仕方で読んだのである。
 西欧形而上学の思考の枠組の破壊を唱えるハイデガーに言わせれば、
 古典的な〈本質/実存〉の二項対立の枠組を一歩も出ずに
 単に「本質は実存に先行する」といったスコラ的公式を
 「実存は本質に先行する」に転倒しただけのサルトルは
 出来の悪い不肖の弟子に見えたかもしれないが、
 サルトルに言わせればそれは有難迷惑で余計な節介であったに違いない。

 そもそもサルトルはハイデガーの弟子などではないのだから
 そのような無礼で筋違いな先生風を吹かされるいわれはどこにもない。
 逆にハイデガーこそがサルトルの『存在と無』や『嘔吐』を読んでいない。
 この話は実は非常にアンフェアなのである。

 むしろハイデガーは本当に古典的な〈本質/実存〉の二項対立の枠組から
 出られているといえるのかと問い直してみる方がよい。

 サルトルはハイデガーの提唱する形而上学の破壊を破壊している。
 この破壊の破壊は、或る意味ではデリダなどの脱構築よりも
 遥かにラディカルなものであったとみるべきだ。

 デリダは有能な哲学者だが哲学を無闇にこみいらせて
 実際には閉塞させてしまっている。
 しかしサルトルは少なくとも颯爽とした思考の自由を創造している。

 思考の自由とは平明な言葉で語ることによって
 哲学を風通しの良いものにすることだ。
 健全な精神は健全な身体に宿るという
 如何わしい標語ほどわたしの嫌いなものはないが、
 健全な精神は健全な文体に宿るということは恐らく真実である。

 西欧形而上学の破壊などは少しも重要な問題ではない。
 むしろ講壇哲学の破壊、エリート哲学者の権威の破壊こそが
 重要な問題なのである。
 それこそが真に現実的な意味での形而上学の破壊の実践である。

 思考し哲学者として生きる権利は巷の誰にでもある。
 デカルトやサルトルがわたしたちに教えるのは
 権威や知識によらず権利によって自由に思考することのきらめく喜びである。
 そのきらめきこそが真の哲学である。

 そのきらめきのことをコギト・エルゴ・スムというのだ。
 このきらめきは美しいきれいなものである。
 きらきらときらめく知性の火の粉である。
 わたしが生きているのはわたしが考えているからである。

 思考するとは命の炎を燃やすということだ。
 わたしが思考するとき、わたしの命がきらめく。
 生きることとは思考するということ、哲学するということであって、
 それを誰も――神さえもわたしから奪うことはできない。
 そのことを知るとき、わたしには何も恐れるものも臆するものもありえない。
 いかなる死せる思考の廃墟もわたしを脅かしはしない。