不可能性はさまざまな偶然の出来事の核心にひそむ無限小の核爆弾である。
 それは偶然性を偶然性たらしめつつ
 偶然性の様相の出来によって掩い隠されてしまう純粋消滅体である。

 不可能性は爆発してその核心を跡形もなく消し去ってしまう。
 それが爆発するとき、絶無が顕現する。そして虚無が発光する。
 虚無はまばゆい閃光となって忽ち絶無を掩い隠しながら万物を抹殺する。

 その瞬間、むしろ全く虚無こそが在る。
 存在は存在しないのだ。存在者も存在も存在しない。

 一九四五年八月六日広島。同八月九日長崎。光輝の爆弾が炸裂したとき、
 その閃光を決定的に被爆して、〈存在〉は死んだ。

 原爆ドームはそれ自体が〈存在〉の死の記念碑であり、その墓標である。
 それは不可能性の核心が跡形もなく消えうせてしまった爆心を定位している。

 しかし原爆ドームは〈存在〉の死の記念碑にしてその墓標という
 象徴的な意味を帯びているだけではなく、
 それ自体において〈実体〉の屍骸なのである。

 原子爆弾はハイデガーを絶望させたが、
 原爆ドームはアリストテレスを恐慌に陥れる恐るべき何者かである。

 それは可能性(潜勢態)にある質料を
 形相が現実性(現勢態)へと実現したものが個物(実体)であるという
 製作論(詩学)的で目的論的な
 自然性(自明性)や合目的性の概念を破綻させてしまっている。

 その意味において原爆ドームは根源的に非合法で反自然的な建築物である。

 それは脱構築的(デコンストラクティヴ)という意味においてすら
 建築学的でありえない。
 かといってそれは廃墟や残骸というように
 崩壊(風化)過程にあるたんに解体的なものでもありえない。
 その場合でもなお保存や補修というかたちで
 元型の形相(機能・外形)の保持(所有態)に耐えられない
 質料の可能性(性能)の欠如が補われ得るからである。

 それは確かにある意味では反自然的で
 不可能的(可能性の欠如という意味で)であるといえなくはないし、
 事実、原爆ドームの維持という合目的性において行われていることだが、
 そのような意味で原爆ドームが反自然的で不可能的であるのではない。

 解体的なものは、「破壊する」場合にしても
 「保存する」場合にしても「復元する」場合にしても
 〈実体〉の形相的同一性は不変であり、従って同一の建造物であるに過ぎない。
 要するにそれは未だ可能性の形而上学の内に留まっている
 欠如としての不可能性・非現実性・不自然性・無目的性・非合法性
 ・否定性・不毛性・虚弱性・破壊性・破滅性・解体性・偶然性(偶有性)
 ・没落性・崩壊性・不明性でしかないのだ。

 そのようなものは未だに目的論的な歴史性(時間性)の中に
 いつでも回収・還元可能な外部性であるに過ぎない。

 原爆ドームがあのような形態をして残ったのは
 全く偶然のなせる技だったという。

 当然、被爆した後にあの形になることを予想し意図して
 建築家が設計したわけでもなかったし、
 破壊を意図してあの建物を目標に飛来した
 爆撃機の乗組員たちが考え出した形でもありえない。

 原爆ドームは原爆の破壊を破壊して
 純粋に破壊的に創造された奇蹟の怪物なのである。

 それはもはや可能性に還元不可能な純粋偶然態であり
 反現実的な現実性としかいいようのないものを開示している。

 形相なき純粋質料、
 質料が形相の可能性を凌駕してしまった
 さかしまの完全現実態(エンテレケイア)である。

 しかしその終わり(テロス)に到達している、という
 語の本来的な意味に照らして
 これほどエンテレケイアの名にふさわしいものはないのだ。
 
 それ故に原爆ドームほど美しいきれいなものはない。
 もちろん見た目のことを言っているのではないし
 感性的(感性論的)な美学において言っているのでもない。

 これは普通使われているような意味で
 〈きれい〉とか〈美しい〉と言っているのとは全く違うのだ。
 そんなものは逆にきれいでも美しくもないのである。

 原爆ドームこそが本当の意味できれいで美しいのだ。
 それは美を被爆している。
 美に灼けただれた次元から異端的に突出してきている何かだからだ。

 そこにわたしは〈もののあわれ〉を感じずにはいられないのである。
 〈もののあわれ〉とは、嘘いつわりのない
 きれいさっぱりな静けさのうちに顕現する物そのものの真相美である。
 原爆ドームは黙示録的に顕現した事物の終末のすがたなのだ。

 かつてリルケは言った――美は恐ろしきものの始めである、と。
 しかし原爆ドームが黙示するのはこれとは逆の詩情である。

 美こそ恐ろしきものの絶滅の姿なのだ。