黙示録の獣六六六の意味について考察することはそれ自体が黙示録的出来事に参加すること、カルト的予言者のいかがわしい讒言の列に己れの汚名を連ねること、霊的・形而上的・神秘的な不可視の戦争であるハルマゲドンを幻想的に目撃すること、更にはそれに参戦するという狂気の危ない橋を渡ることだ。

 それは実際に正気の沙汰とは思われないし、ひどく現実離れしたことのように思える。何よりも社会的信用を失いかねない。

 まして、一九九五年に、わたしたちは有害で幼稚な黙示録的妄想の悪霊に憑依された人々のために危うく現実を破壊されるところだった。

 毒ガスの恐怖は現実のものだが、それを撒き散らした連中は腹立たしいことにレヴェルの低いマンガであった。
 そのひどい齟齬にわたしたちは侮辱されたと感じている。

 幼稚園児の落書き程度の短絡的で錯乱した美意識によって現実を転覆されたり生命を脅かされたのではたまったものではない。もう二度と予言だのオカルトだののたわごとは御免である。わたしたちはオトナなのだ。ちゃんと現実に定位しておかしな夢に惑わされないようにしなければならない。

 ……だがそのように考えるとき、わたしたちは彼ら同様に卑劣で傲慢で嘘つきだ。

 わたしはオウム真理教の妄想を認めないが、オトナ真理教の妄想も認めない。
 それはどちらも耐え難いまでにみにくいしどちらも頽廃し過ぎている。

 わたしは哲学徒の端くれとして、
 そして文学青年の端くれとして、
 この双方の価値意識の低さを恥じるし、許せないと思う。

 むしろオカルトならばオカルトなりの決着をつけさせなければならない。
 ただのマインドコントロール合戦程度の幻滅的で厭味なオチで事が済んでしまうというなら、それほど人間の尊厳を侮辱した話はない。
 わたしは安っぽい話は嫌いだ。

 一九九五年の出来事の不快さはその叙述の仕方がいかにも下世話であることにある。
 オウムの連中も想像力が貧困ならわたしたちの社会の代表者たちも想像力が貧困で悪趣味であった。
 一番悲しいのはそのことである。

 彼らはわたしたちを殺虫剤で駆除すべき害虫程度にしか見なかったが、わたしたちもまた彼らに人間を見いだすことに失敗し下らぬマンガにこき下ろすことで自分達自身の人格と品性の卑しさを曝露してしまった。
 結局わたしたちが確認したのはボロボロに頽廃しきって何処にも美しいところのないゴミ溜めのような社会であり、わたしたち自身のウジムシよりもいじましくいやらしい悲惨でセコい生存である。

 オウムに代わるものが、終わりなき日常の希望なき精神的貧民のゲットーとそれを窒息的に囲いこむ破防法の鉄の壁だというのなら、それこそ日本列島総サティアン化であり、かつての共産圏よりも陰気で重苦しい全体主義的管理社会、いや自分の同胞を強制収容所に監禁してみんなで仲良く自発的にガス自殺しようとするナチスに洗脳されたユダヤ人共同体というようにグロテスクな社会を思い描く他にない。

 わたしたちに必要なのは、「オウムが王蟲なら僕らも腐海の虫ケラで後は巨神兵の復活しかないのさ」というナウシカのいない風通しの悪い風の谷的絶望感しかもたらさないような意気阻喪的現実主義=犬儒的幻滅的ニヒリズムの魂の死に沈むことではない。

 そんな見窄らしい不毛な現実ではなく、実践的な超現実として、気宇壮大な幻想と希望の光学が必要なのである。

 神や救世主や神秘が必要なのはむしろ今なのだ。

 わたしは麻原彰晃の最大の犯罪は人間の心に毒ガスの霧を撒いて、神や救世主を幻視する能力を麻痺させ、魂の目を潰し盲いさせようとしたことにあると思う。
 それについて語ることを不可能にしようとしたことにあると思う。

 だが、わたしたちは絶望してはならない。絶望したらそれこそ麻原の思う壷である。

 麻原の宗教は、結局麻原自身を現人神=最終解脱者としてファナティックに崇拝する、戦時中の皇国ファシズムのグロテスクなパロディであり、つまりは神なき宗教であった。

 オウム真理教の本質は軽薄な無神論であり、幻滅的で陰気で畸型な仏教的ニヒリズムである。
 彼らは毒ガス工場を宗教施設に擬装したり、宗教法人資格を取るための付焼刃的偽本尊として散々シヴァ神を利用したが、それを少しも信じてなどいない。
 彼らは宗教を神を予言を人の心をおもちゃにしている。

 このような愚弄に対しては、それこそ宗教的で黙示録的な最後の審判が必要である。
 麻原の神性を解体するにはそれを人間の法廷によって裁くだけでは不十分である。彼は神の法廷によって黙示録的に裁かれねばらならないのだ。

 わたしは断言する。
 彼は神などにはなれない。
 神は彼よりも偉大である。
 マハー・デーヴァ、大いなる風神シヴァの奇蹟はあの卑小で下劣な教団のチンケな欲望を超越している。

 一九九五年、恐るべき、しかし、吉祥なる者シヴァの破壊創造のダンスは確かに日本列島を駆け抜けていったのである。
 自ら神以上とうそぶく麻原の思惑を越え、神性シヴァは日本とオウム王国を平等に裁き平等に滅ぼした。

 麻原には人間の魂をポアする権利もなければ能力もない。
 しかしシヴァにはそれがあるのだ。

 わたしはシヴァを信じる。
 シヴァのすることは恐ろしいが、しかしそれでもそれには聖なる意味がある。

 もし人が麻原の犠牲になったのに過ぎないなら、その魂は浮かばれない。しかしシヴァの犠牲になったのであれば、その犠牲は聖なる犠牲でありその魂は絶対に救われている。

 そしてシヴァは麻原のみならず多くのバブルの悪霊に憑かれた豚どもを裁き滅ぼし、この日本を清め、いや全世界を清め、虐げられし人々の眠りを覚まし、変革の時が近づいたことを教えるために来たのだ。

 一九九五年に起こったことは黙示録の告げる第五の災厄アポルオン=アバドンのしるしの成就である。

 

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