妖怪は変化する。それは形なく実体ももたぬまま暗闇にひろがる。
 妖怪はひろがりゆく漠たる気配という以外のどんな様相をもつものでもない。

 それはいない。その姿はみつからない。
 だれのものともつかぬ大いなる影、夜の翼の横切る影のうっすら微妙な殆ど感触ともいえない感触の底で唸りがする、それが鳴り動む。
 それは遠くから深くからひくく捉えがたく聞こえない声で呼びかけ、それとも呼び声となって押し寄せてくる。
 だがそれはいない、どこまでもいない、かぎりもなく大きなその〈いない〉のうつろの黒い無の退きの奥底でそれなのに鳴り響く谺が反ってくる。

 その反響はうつろの全域に〈ある〉と轟く。
 「その〈いない〉は〈ある〉」と、その不在の基底を押し上げ迫る響きの主は言うのだ。

 こうしてその〈誰もいない〉〈何もない〉という空虚な無の夜の不在は〈ある〉ようになる。
 それがここにいう妖怪である。
 〈ある〉ようになった〈いない〉は存在論的妖怪である。
 それは実体をもたぬままにそこに存在をもつようになる。

 他方でこの存在論的妖怪の背後にあって、それを後ろから押し上げる別の巨大な怪物がいる。
 この〈ある〉のではなくて〈いる〉ものは存在論的魔神であるといえる。

 この魔神は畏怖させるものだが寒気をおこさせるものではない。
 それはいなくなることのありえなさとしていつも底の底にどっしりと控え横臥したままでいるのだ。あるいはアトラスのように万物を下から支える反重力の巨人であるといえる。

 魔神は決して直接襲ってきはしない。
 しかしそれは時として妖怪を生み出すこともある。
 そして恐ろしいのはその妖怪の方である。

  *  *  *

 存在論的妖怪と存在論的魔神は相互に差し押さえあう牽制的な相関関係にある。
 現代西欧講壇哲学の議論でいうと、前者はレヴィナスのいう〈イリヤ il y a〉に、後者はハイデガーのいう存在=ザイン(Sein)ないし〈エス・ギプト es gibt〉にほぼ該当する。
 しかし、わたしの興味はこの問題を寧ろ所謂〈西欧哲学〉とは違う次元のなかで解くことにある。
 真の問題の所在はそんなところにはないし、大学人や現代思想の事情通の専売特許でもありえない。

 わたしはこの存在論的問題は、勇気あるレヴィナスが実際に告白している通りに、哲学的問題である以前に幼い子供の恐怖の問題であると考える。
 すなわち脅かされた童心の問題であるからには、一旦は大人びて物の分かった風の用語法をすべて解除し、子供の目線に帰って凝視め直してみることから始めたいと思う。

 ハイデガーもレヴィナスも曾ては小さなおびえやすい子供であった。
 わたしが発見したいのは寧ろ彼らの優しく痛ましい童心である。
 しかしだからといって精神分析的なアプローチをするのではない。
 それもまた子供を厭味に見下す眼鏡を聳やかした妖怪的で魔神的な態度であるに過ぎない。
 冷酷な推理で童心を切り刻む探偵的なやり口はみにくく嫌らしいものだ。
 そんなことはお偉い先生方がやればよろしい。

 しかしこれだけは今言っておきたいが、子供というものはそういう知ったかぶりな先生方には決して心を開かないし、必ず内心で〈おまえなんか大嫌いだ〉と思っているものだ。
 偉そうに子供心を解説する児童心理学者もやたら教育熱心でにこやかな先生方も子供にとってはおぞましい敵である。

 彼らは子供の味方ではありえない。だから寧ろわたしは大人であることを寧ろエポケーし、童心に帰って、幼い妹を亡くした小さなハイデガーや暗闇のなかで脅える小さなレヴィナスの小さな友達になってやらなければならない。
 それは童心による哲学の批判である。
 そして童心による哲学の解明であり、童心が自然に哲学することの権利を、例えば『ソフィーの世界』のような子供騙しのひどい童話を書くことによって破壊しようとする愚かな大人の似非哲学者の邪悪な善意から断固として守り抜くことである。

 童心にとって必要なのは、アンデルセンやルイス・キャロルのようなきれいな童心の持ち主である真の大人によって書かれた本物の童話=哲学であり、エンデやゴルデルやケストナーや宮沢賢治のような童心を失い傷つけられた哀れでいびつなバロック的子供=先生によって書かれた子供騙しのおめでたい優等生的童話=教科書(児童文学)ではない。
 後者は女々しい大人が愚かな夢を見て己れを苛むために読むような本であり、子供を駄目な良い子に凍りつかせるために書かれた洗脳文書に過ぎない。

 またそれは哲学の起源について違う見方でアプローチすることでもある。
 哲学の史的起源についての批判的あるいは脱構築的考察をわたしは侮蔑しているものではない。
 だがロゴス中心主義だの現前性の自明視だの存在の支配だのをやたら批判的に強調し過ぎることは弊害を齎しやすい。それが却って抑圧的な言説にすぐ変質する手合いのものだということを忘却することはそれこそ愚かだ。
 その愚かしさはそれが西欧の空の下でなされているのならまだしも、日本の空の下でなされるなら原爆投下と同じだ。

  *  *  *

 存在論的妖怪、そのとらえどころのないものは幽霊であるとはまだいえない幽霊以下のものだ。
 わが国の古い文学はこの得体のしれない妖気のひろがりを物怪〔もののけ〕と呼んでいた。
 物怪は人に憑依くものだ。物怪には恐怖の元型というべきものがある。

 それは恐れや慄きである以前に怯えの様態にある。
 怯えの段階ではまだ恐れというものはないし怖いということも起こっていない。

 怯えというものは一瞬をかすめるそっと触る程度のものでちょうど一筋の風に似ている。
 あれっと思うやいなやその接触は終わっている。
 それはとても僅かな些細な異変で、間一髪の刹那に蒸発するすれちがいのようなものである。
 それは全く何げないもの、ポトリと雨滴が頬にかかってそのまま雨が降らないでいるような程度のことでしかない。物怪というのは魑魅魍魎の類いで得体が知れないというより殆ど取るに足らない刹那的なものである。

 幽かなかぎりなく幽かな外気に鼻の頭が触れる程の小さな空間でそれは起こる。
 駄洒落になってしまうがそれは無視すれば無視してしまえる程度の小さな虫の体に当たるぐらいの異変である。触れてくるものは衣の端であったり、物の角であったりさまざまだが、それは部分以下のもの、微粒子的なもの、輪郭線のそのまた切端のように微塵的なものである。そしてそれは皮膚にさざ波を起こす。苦痛でも快感でもなく、熱いでも冷たいでもない。この未分化な感覚はそのどれにもならぬとりとめのなさのなかに曖昧に篭もる。

 それは〈ある〉としかいえないものだ。けれどもその〈ある〉は〈何かがある〉でも〈ここにある〉でも〈いまある〉でもない。それは忽ちにしてないような〈ある〉、不定な浮遊する〈ある〉である。

 それは横切り過越す。しかし大きな弧を描くことはない。微かで小さな短距離に不意に生じて少し移動すると忽ちにして途絶えふっつりと行方をくらましてあとかたもないようなものだ。確かにそれは不思議といえば不思議だが不思議以下のものである。だがそれは当たり前ではないし、永久に馴染めないものである。この微細な線分は何か分からないものとしてしかありえないのである。

 もうすこしこの考察を続けてみよう。
 これは奇妙または寧ろ〈妙〉というものではないだろうか。

 妙というのは小さくて微かな鉛筆の塵ほどの生成途上の中絶線だ。
 妙は差異や分化の手前にあるもので、まして普通に存在や同一性や類似や比較や区別という判然とした得体の知れた次元に届き達する以前に息尽きてしまったものだ。
 妙が己れを告げ知らせるのは未完遂で朧げなままに中絶し間引かれてしまう脱落や消滅によってだ。そう、それは途中まで書きかけていながらまだどんな文字にもならぬうちに蒸発してしまい、またその書き残しがこれからどんな文字になろうとしていたのかも推測することのできない鳴り損ないの欠落した文字のようなもの、文字そのものの反故であるような中途半端な反故であり、生成の脱去した形骸なのだ。それは落ちこぼれたものである。

 それは最低限の意味での書記作用にも引き入れられることのなかったものだ。
 それはエクリチュール以前にある。差異化することも同一化することも変化することも類似することもできなかった塵、散り失せたもの、変化のない変、消し飛んだもの、無のゴミのようなものだ。それは生成や形成や存在や分化や差異や関係やのカテゴリーには属さないような還元不能な還元の残余としてある。それについてただいえることはそれは何かになる以前に消えてしまったということだけなのだ。

 逆説的で奇妙なことだが、恐らく最低限度のエレメンタルな〈ある〉は消滅ということにおいてのみ己れを示す。それは存在の中に来ない。何かではないからだ。また、それは差異の中にも来ない、切り離すことも区別することもできないからだ。つまりそれは書けないし、造れない、掴めない、知れない、壊れない、生まれない、成らない、所有できない、存在しない、しかし無くならないし無くせない、そんな風にして、消滅という逆説的な非在的アトム(原子)ないし元素によってのみ出来ているような〈ある〉があるのだ。それが物怪あるいは〈物〉というものの本性でありその精髄なのである。

 物は妙または微細としかいいようもない奇妙な無の塵、元素記号〈消滅〉によってできている怪である。物怪である物の究明された本性はまさしく〈怪物〉としかいいようもないものである。物がある、それは怪物がいるということである。唯物論というのはだから考えてみれば実に随分とぶきみなものなのである。

 〈ある〉は物怪としての物を落ちこぼしてゆく出来事だ。それは消滅によって物を創造する。物は粉微塵として、無があるという出来事なのだ。

 無がある。無は普通の意味で存在するとはいえないが、その独自の仕方でどうしようもなくある。無の存在様態は多分通常の存在者の存在様態とは異質で、無の〈存在する〉と存在者の〈存在する〉はどこまでいってもひとつの共通の存在の意味にはたどり着かない。

 無は存在しない。だが多分無は消すことができない。逆に無が物の物性を元素的に支えている。
 物とはつまるところ何なのか、それは無があるということの取消不能の事実性である。無は物を物として世界に書き込む。物は物怪という最小限度の塵となって触れてくる。

 もういちど皮膚のさざ波に戻ろう。物はどこから来るのか。〈ある〉はどこからはじまるのか。
 感じて波紋する皮膚に物怪ははじまるのだ。それは外でもなく内でもない。感触する皮膚において物怪が起こるのはそれが皮膚に溶けこむことによってだ。
 物は溶けること、消滅することのなかで〈ある〉を響かせる。だがそのとき物が消える、或いは融解する、融即するというだけではおそらくない。そのとき内と外の境界が融けるのだ。怪奇な融合が起こり、恐らくわたしは頬の皮膚のなかに物を感じる。感覚の言語に即して忠実に考えるなら、物は根本的に浸透的で恐らく侵犯的であるような性質をもっている。それは挿入的なもので括弧〔パーレン〕に入れられているのにその括弧がまるで生体の浸透膜であるかのようにすうーっと通り抜けて入ってくるかのようだ。

 物体には二つの体がある。
 一つは古くから不可入性(impenetrability)と呼ばれる性質をもつ体で、二つの物体が同時に同一空間を占有することが不可能であるという常識に従っている。これは形相によって定義され輪郭を与えられてその内側に固定された判明な存在者の体である。
 この形相の次元とは違って、質料の次元ではまるで逆のことが起こっている。
 触発〔アフェクション〕という様態では物体は伝導的で透過的〔トランスペアレント〕な体をもっていて、他の内に混入し滲み通ってゆく、或いは貫き通す体をもつ。

 ちょうど接吻が唇を通り抜けて心臓へと達するようにそれは滑り込んでくる。これは特に奇異なことではないし矛盾することでもない。それどころか後者(透過性)が前者(不可入性)を支えている前提条件をなしているのだ。
 浸透してくる体が感知されてはじめてそれが置き去りにしてきた体に注意が向けられそれをその位置に不可入的に感じるのだ。

 例えば冷たいものに触る、すると冷たいものはわたしのなかに滑り込んできてわたしの中心にやってくるが、その冷たいものは他方でわたしから離れ去ってわたしの身体の外部に切り離されたものとして局所化してその位置に戻る。それはわたしがそれを押し戻しわたしから押し出そうとするからである。物体はわたしからの出力=外置〔アウトプット〕として、透過されたことへの反応として外へと吐き出されるのだ。

 物体の定位は、けれども形相に依存している。形相が見いだされなければ物の質料的で透過的な侵犯する体は〈何か〉であることができない。ただわたしがそれを外に押し出すという出力=外置〔アウトプット〕だけではそれは存在者の存在のなかに定位=定立することにならない。わたしからの切離し=遮断〔シャットアウト〕はただわたしの形相・わたしの輪郭であるわたしの身体図式のなかにわたしを定位=定立するだけである。
 わたしはそのときにわたしを形相に依存して漠然たる他から外からエポケーし切り離して浮き上がらせることができるだけだ。地の上の図のように、わたしの身体は大地の上に形態化(ゲシュタルト化)する。そのときにわたしは大地から身体を切り離しエポケーしてわたしの形相という括弧〔パーレン〕の内に総括しているのだといえるが、それはわたしがたんに大地の上に横たわるからではなくて、大地から立ち上がるからである。
 わたしは大地から質料をわたしの身体の形相の内へとそれを構成するための糧として元素として汲み上げ吸収することでわたしを養いわたしの濃度を濃くはっきりとさせ活性化させている。しかしそれは定位することではない。定位することはわたしの形相の内への定位でなければならない。わたしはわたしの身体を大地からもぎとる(生命の樹から知識の果実をもぎとるように)というエポケーによらなければ大地におのれを支えさせることができない。
 しかし大地はこの切離し=遮断〔シャットアウト〕であるところの出力=外置〔アウトプット〕だけによっては定位されたことにはならない。この場合大地には形相がないからだ。形相のないものは質料の闇に沈み常に連続的な背景であることしかできない。大地はこの意味でいうなら存在者であるとはいえないだろう。それは他の存在者の形相的自己集中の基盤(基体 hypokeimenon)でしかないだろう。
 大地は存在者ではないという意味では存在するとはいえない。しかし大地はある。大地は物としてある。それはわたしから切り離され、遮断され、出力=外置されたものとしてある。

 ゲシュタルトの図/地の分節に戻ろう。図は地から形相によって切り抜かれる。アウトラインを通して図は実体化する。他方で地はアウトラインから弾き出されることによって基体化する。基体化するとは第一に背景化するということ、切り抜きによって生じた穴を埋めて不可視の連続をつくりながら己れは分化せず未分化な渾沌に、消極的な空虚に希薄化してゆくということ、つまり曖昧な無になるということである。第二にそれは空間化するということ、空白化し余白化するということ、実体を中心に濃く凝縮してゆきながら、おのれは周縁化し実体の明瞭化してゆく輪郭の外に追放されてゆくということを意味する。追放されながら基体は実体を包む。包むというのは輪郭の外側に空間のひろがりをつくるということである。基体化はある種の無際限化である。それは全体化の外になお何者かがあるということ、そしてある意味では部分が全体よりも大きいような奇妙なものとなるのだ。
 形相の生成としてのエポケーは、実体化と同時平行的に基体化である。実体は、地の上の図のように、基体の上の実体であって、基体の中の実体ではない。大地の懐に抱かれているのではなくて、それは大地の上に浮きのぼり、その上で大地に重なって横たわるのである。横臥よりも以前に起立がなければ実体化はありえない。むしろただ基体化してしまうものだけが横臥するのである。
 形相の生成としてのエポケーは、確かに質料の二極化/分節化である。それは実体と基体を分離いやむしろ存在論的に切断している。それは存在(実体)と無(基体)の切り離し、切断としての差異である。この差異化は一極集中的な非対称的差異としての実体化である。実体は非対称的位相差であるところの形相の焦点に縮限されながらその焦点の回り/形相の内部に形成される。