さて、先に「不可能性における〈神〉の顕現」において、わたしは次のように書いている。

出来事としての出来事はその最初の様相において純粋に見るならば、不可能性でしかありえないだろう。思考は驚愕する。思考は一瞬蒼白になり、その眼前の事態を理解することができない。最初に思考が発見するのは〈ありえない〉である。出来事は〈ありえない〉の衝撃によって思考の〈度〉(modus)を失わせる。
 そのとき思考は、出来事に能力を略奪され、無能力を、〈出来ない〉を体験させられている。思考にとって〈出来事〉とは〈出来ない事〉でありまた〈有り得ない〉ことである。それは思考にとって恐るべき超越的な力に屈服され、全身全霊を剥奪され、無力化される屈辱の体験であるだろう。〈出来ない〉〈有り得ない〉〈分からない〉、そのような茫然自失の態に陥って思考は出来事の内へと巻き込まれ拉致されている。思考の恐るべき無力への突き落としとして、〈出来ない〉〈有り得ない〉〈分からない〉という叫びとして、思考は確かに不可能性を体験している筈である。
 出来事は思考に現実を押付ける強制的な暴力である。それは馴致できぬ荒々しい野蛮な強姦的な魔力であり、超越としての超越である。論理学的には必然的に偽であることを表す不可能性の様相(modality)を伝統的に哲学は蔑視し続けてきている。しかし、思考にとって最も避けがたく恐るべき厳しい様相、超越的で深刻に真に現実的な様相は不可能性である。


 しかしそれは思考がその失った〈度〉(modus)を回復し、その〈規範〉ないし〈流儀〉(modus)に従って馴致化してしまうと、それが当初もっていたパセティックな野蛮さは見失われてしまう。
 そこで通常いわれる「様相」という概念は modality ないし mode という自己抑制=節制(moderation)的な思考主体の正気を保った態度に合わせて調律化されたものである。
 それは節度化され適性化された様相、手直し=修正された様相、態度変更(modification)された様相である。

 これはラテン語〈modus〉に派生する語源学についての単にペダンティックな皮相な戯れではない。
 そのように揶揄する卑しい習性の持ち主が余りに多いので予めクギを刺して言っておくが、わたしは語源学のことなどどうでもいいのであって、そのように受け取られるなら極めて心外である。
 語源学的類推は単に考察を進め、概念装置となる用語を獲得して論をできるだけ円滑明晰に進めるための参考的便法に過ぎない。
 わたしにとって辞書とは誰にとってもそうであるようなプラグマティックな道具である。
 わたしはむしろここで語の意味を創造し、独自の用法を開発している。
 探究する概念の核心はこのような仕方でしか獲得も把握もされはしない。

 わたしがここで確定しようとするのは〈態度変更〉の概念である。
 それは〈態〉を〈度〉に変更して中和化しようとする思考主体の自己節制的な身の立て直しの運動を意味する。

 〈度〉においてわたしはラテン語の〈modus〉に当たるものを押さえようとしている。
 しかし、これはわれわれが通常「度を失う」というようなときに失調せられるもの、恒常的で安定した自己の自己同一的かつ自己了解的な平常性を支えるものを意味する。
 〈度〉はそのような意味での自己の実感である。
 それは単に〈私〉であることではなくて、〈この私〉であることであり、この私がこれが私だと思うような意味での実感あるこの私であることである。
 〈度〉とはそのような意味で或る種の自己執着であり、しかしやや想像的な意味における自己への我執である。

 それはあるがままの私であることとは少しばかり違っている。
 そこには多少の緊張と努力が含まれている。
 それは自己の意志によって自己を固定し確定しようとするときの定点となるべきものであって、度を失った私はその定点に獅噛付きそこを起点に自己を自己のうえに立脚させて立て直そうとするのである。

 そこは私の核心とはいえないが、私の重心にして起点となる局所化されたトポスを意味する。
 つまりそれは自己の自己への主観的一致としての〈この私〉であることである。

 〈度〉は自己を目当てとしてそれに見当をつけ、自己をはかることを通して与えられるところの何かしら手応えのある自己を意味する。
 そしてこの自己を基準にし、単位にして他のものを推し量るときの様々な物差しとなる尺度としての自己をも意味する。

 〈度〉とはまさにこのこれだと思うような〈一〉なるもの〈同〉なるものである。

 そしてこれは量的な自己である。これを用いてわれわれは数を数え、回数を数えさえする。
 〈度〉はあらゆる量の基礎的なものである。
 それは基準量としての〈私〉であるといえる。

 〈私〉はあらゆるものの尺度であり、単位であり、反復可能な同一体である。
 それは再帰的に反復し、基本的に不変で自己同一のものでなければならない。
 この〈度〉としての私によって私は私より大なるものを測り、小なるものを測り、あらゆるものを私を通して私と比較する。

 プロタゴラスのいうように人間は万物の尺度である。
 万物の尺度となるためにはその尺度はあらゆるものに先立ってそれだけは自明に与えられていなければならない。そしてそれは普通にして中庸の所を得たものとして信念されなければならない。さもなければそれは測量の基準点として用を足さず役に立たないだろう。

 〈度〉はこのようにあらゆる知、あらゆる思考、あらゆる計算、あらゆる行為の精神的かつ身体的な自明性の自己出発のための起点となる、最初に与えられた単純なものである。
 それは〈modus〉としての〈modus〉、modality としての様相の根幹となる、様相の様相性それ自体、それなしには様相が思考にとって様相たりえないようなその必然性の中心、すなわち最初の自己規定を意味する。
 この〈度〉を通して modality としての様相は思考の自己抑制=節制的な自己規定であるこの〈度〉に適合するかたちで整序された様態で出来するのである。

  *  *  *

 〈態〉は逆にこの〈度〉に取り込まれる以前の、〈度〉を失った状態の混乱した自己に情動的に到来する野蛮な様相での様相、寧ろ情態性というのが相応しいような実存的な様相の様態を記述しようとするものである。

 漢語において「態」は心構えや姿を意味し、動詞として「うわべをつくろう」という意味をもっている。即ち〈度〉が自己において自己中心化しようとする様態を意味するのに対し、〈態〉は寧ろ対他的で外に気を取られ、やや度を失った様態を意味する語であるのだといえる。それは対他的な身構えを意味している。

 〈度〉は規準である。
 〈度〉においては規準は自己の内に置かれ、他がそれによって測定されている。

 しかし〈態〉にあっては規準はむしろ他の側にあって、自己がそれによって測定される己れを気にし、恥じ、或いは媚態し、或いは狼狽している。

 しかし、そうはいっても〈態〉は既に失った〈度〉への身構えの立て直しの態勢に移りつつある。
 その意味で〈態〉は動揺から既に立ち直りつつあるのであって、既に思考主体の自己再生のサイクルに入っているのだといってよい。

 しかしわたしは〈態〉の概念をもう少し拡張して用いたい。
 どのように拡張するのかというと、それを時系列的にいえばより前の段階まで含み持つような仕方で、つまりまさにうわべをとりつくろわねばならぬような他なるものに不意を突かれて度を失い、一瞬気をすっかりそれに奪われてしまっている自己剥奪の瞬間にまで遡及して用いるのである。
 つまり〈態〉とは〈度〉を失っている間のすべてを覆う。

 〈態〉は〈modus / modality〉とは異相にある出来事としての様相概念、ギリシャ語のパトス(pathos)に当たるものを押さえようとしている。
 このパトスとは〈病〉或いは〈感受〉という意味合いを持っている語である。