出来事は出来する。異相のわたしが交錯し、
 そして思考は、一瞬、〈度〉を失う。
 〈度〉において、失われる〈わたし〉があり、
 そしてまた、出来事から出来して、
 このわたしへと渡される〈わたし〉がある。
 〈わたし〉とは、或る意味で、
 むしろ〈渡されたもの〉としての〈渡し〉である。

 すると、いわば〈わたし〉の渡来性、
 渡来する風としての〈わたし〉の
 異風異貌の様相の問題が問われねばならないだろう。
 この渡来者としての〈わたし〉の形相は、確かに、
 破壊=触発する形而上学的〈風〉の出来事のうちわから出来して、
 わたしに出て来る出来者としての〈そのわたし〉の風貌である。
 それは、〈風〉から現れてくる、〈このわたし〉の新たな顔かたちである。
 〈わたし〉の渡来性はこのように
 〈そのわたし〉と〈このわたし〉を掛け渡す。
 それは、二つのわたしをあいわたって、
〈他ならぬ=このわたし〉と化する、
 いわば〈わたし〉と〈わたし〉の〈橋掛け〉としての〈渡し〉である。

 そして、実はおそらく、この〈橋掛け〉はむしろ掛け算であり、
 優れた意味での〈乗算〉である。
 そこでは〈他ならぬもの〉が〈このわたし〉に乗るのだが、
 それが〈このわたし〉の抑圧ではなく表現と化するときに、
 〈他ならぬ=このわたし〉はむしろ〈他ならぬ×このわたし〉として
 〈わたし〉へと解けるからである。
 それは〈わたし〉の交換=交差である。
 この〈わたし〉の橋掛けを表す交差の符号〈×〉を
 わたしは黙示録的語調において、〈Xのアーチ〉と名づけておく。
 それはエリクソンの極めて興味深い
 不可思議な小説の表題を記念するものである。

 この〈橋掛け〉は、同音異義語の〈端欠け〉と対照されねばならない。
 というのは、〈端欠け〉という端緒の欠如性は、
 むしろ逆に形相の消滅、すなわち〈形無し〉になることであり、
 逆にこの〈わたし〉の渡来性としての〈橋渡し〉を壊している。
 それは掛け算ではなく、むしろ割り算であり、
 むしろ恐るべき意味において、
 それは〈わたし〉を除くこととしての除算である。
 このとき、〈このわたし〉は〈そのわたし〉に出来しない。
 〈そのわたし〉が〈このわたし〉に出来しても、
 〈このわたし〉には何も渡されることがないからだ。
 譲渡は起きず、またわたしの交換=交差も起きず、
 むしろ〈わたし〉は奪われる。
 このとき〈Xのアーチ〉は、乗算の符号ではなく、
 むしろ否定の、罪と罰の徴、間違いと失敗の屈辱の徴、×印となる。
 〈端〉を欠いて〈形無し〉となったわたしはこのとき恥を掻く。
 〈恥〉とは、〈わたし〉の表現の失敗、その無様な失態に他ならない。