〈1〉「存在する」とは「無くは無い」ということである。

〈2〉「無くは無い」の否定の否定、二重否定が肯定に転ずるときに「存在」は無化する無の折り返しに断定される。断定は単なる肯定とは異なり、また肯定の誕生に先行して起こる判断=原分割(Urteil)の出来事である。
 断定は切断的であり、それ自身が、「断ること」として否定を孕みもっている。
 つまり断定は第一次的な否定を否定的に断って退けつつ、二重否定を完成させるまさにその第二の否定行為のことである。
 断定は否定である。それは否定の否定、能動的に無を無化する否定的な虚無である。
 最初の無はそれ自体としては否定的なものではない。
 第二の無という「否定するもの」によって否定的に指し示された「否定されるもの」むしろ「否定されるべきもの」であるに過ぎない。
 無化される無から無化する無が出て来る。或いは無化する無によって無化される無が生成される。それは表裏一体の出来事である。

〈3〉断定は肯定と否定、存在と無に先立つその両極化としての原否定である。
 それは存在を文字通り無から創造している。この無からの創造は存在論的天地創造である。
 無は自己を無化しつつ自己を存在へと転換させる。

 或る意味ではレヴィナスのいうような存在の位相変換に先立って、無の存在への位相転換が断定の自己否定的自己創造として遂行されているのである。
 無論この自己否定的自己創造である断定=否定が創造する自己は全く虚無的な自己であり、創造されるや否や破滅的に自滅崩壊する自己、自殺的な自己であるに過ぎないが、絶対的にまた比類なく自己同一的な完璧な自己の自己定立、自我の原点をなす無の結晶化である。

 この自己は絶対無である。絶対無とは絶対的に無いところのものとして存在と無の絶対零度に刻みつく。

 絶対無の完全自己否定的自己定位はその存在論的絶対零度に己れの絶対自同律を一点に爆発的に収縮させることによってその極限的氷点に超高密度に氷結させてしまう。
 その意味でこの絶対無はあらゆる実体の究極の実体であるような超実体であり、実体概念の不可能性の核心をなしている。それは永遠不滅の相にあってあらゆるイデアのイデアをなす最も近づき難きもの、パルメニデスの一者の本体である。

〈4〉絶対無は存在と非在をちょうど大宇宙を一刀両断して二つの半球に切り裂くように絶対的に分割しつつその分裂を不可能的に自己統合した極限概念である。
 存在と非在の自己分裂的統合者である。

 それは己れの双面に存在と非在の相反する二面をもつが、それ自身は存在でも非在でもないところのものとして暗黒的に隠れている。存在及び非在によって二重に自己を隠蔽している不可能者である。
 つまりそれは存在することも不可能であるが非在することも不可能である。
 しかしそのことによって存在と非在を共に引き離しつつ夫れ夫れを可能にしている。
 それは存在と非在の可能性の根拠であり、換言すれば、真と偽の可能性の根拠であるような真理の真理、〈ことわり〉(断り=理)である。

 存在と非在はただ断定的にのみ断られ、腑分けられ、引き離し得るものである。

〈5〉絶対無はそれ自体が不可能概念であることは、ヴァレリーもベルクソンもヘーゲルも言っている。それは必ず存在の必然性に反転するもの、存在の必然性に帰着するものである。

 ベルクソンの場合それは存在者の必然性に転化する(『創造的進化』)。
 ヘーゲルの場合絶対無と純粋存在の同一性が言われる(『小論理学』)。
 またヘーゲルは別のところで不可能性はそれ自身が不可能であるために必然性に転ずるということをいっている。

 無が否定性であるにせよ不可能性であるにせよ、それは必然的に存在へと移行する。
 非常に対照的な哲学者でありながらベルクソンとヘーゲルはこの点において一致している。
 両者はその原理が異なるにせよ何れも単なる存在と無の抽象的対立を生成の方向へと乗り越えてゆく。

 ヘーゲルは純粋存在と絶対無という共に無規定で直接無媒介的なものの間には真の定立された区別はないとし、両者を同一者に帰着させつつ、両者の真理を両者の弁証法的統一、まさに最初の弁証法的統一である生成(Werden)に見いだす。
 その根拠は存在と無の両者に共通する土台となるような類概念にあたるものがないということにある。区別が成り立つためには共通の同一性が前提されていなければならないということがヘーゲルの思考の前提になっている。
 しかし絶対無と純粋存在は区別不可能であるが故に絶対的な区別である。
 ヘーゲルはそれを自己同一性の生成によって乗り越えてゆく。

 こうして生成は最初の具体的な思想、最初の概念となって彼のいうところの現存在(定在)という成果へと進行し、そこにおいて消滅してしまう。
 つまりベルクソンと結局同じである。絶対無の不可能性は存在者の生成の必然性なのである。

〈6〉九鬼周造もまた『文学概論』においてヘーゲル・ベルクソンと同様に絶対無を存在=生成の運動のうちに止揚(否定)している。
 無の無化はとりもなおさず存在の自己生成のはたらきとして受け取られる。
 絶対無は斥けられ、相対無だけが残ることになる。

 九鬼はこの相対無を欠性的無・積極的無・消極的無に分類し、その一つ一つが彼のいう存在学的見地からみて絶対無ではありえないことを示してゆこうとする。
 そのうち、真っ先に無とはいえないとして無の分類から外されるのが欠性的無である。そして無の分類のうちには積極的無・消極的無だけが残ることになる。

 欠性的無とは論理学的には否定(無)であるが、存在学的には非在とはいえず、寧ろ現実的存在に含まれるようなものである。
 実在に対する影や、善に対する悪のようなものである。
 それは無いとは確かに言えないものである。カントの負量の概念にそれは対応している。
 論理的には+に対する0であるが、現実的には+に対する─であるようなものである。

 つまり0は単に無いだけであって、他を無化することはないが、─は他を無化するようなそれなりの積極的存在をもつさかしまの存在者であるということができる。
 九鬼はそれ故にこの欠性的無を現実的存在に分類して無の分類から斥けるのである。

 積極的無は現実的存在ではないが可能的存在でないもの、可能的存在として存在し得るという積極性を有するものをいい、例として狂人の世界、夢の世界、芸術の世界が数えられている。

 消極的無とは可能的存在でもありえないもの、丸い四角のような概念の無い空虚であるが、対象である性質を厳密に欠いているとはいえないものをいう。
 要するに自己矛盾した観念や不可能観念がこれに含まれる。しかし、九鬼はこの消極的無・不可能なものも絶対無ではないといっている。

 このように九鬼はその無の分析において絶対無を存在に、欠性的無を現実に帰着させることを通して、この両者を無とはいえないものとして外し、結局二つの相対無である積極的無と消極的無だけを本来的な無として認めているのである。

 奇妙な言い方になるが、一見、表面的にみると九鬼は絶対無と欠性的無が無であることを否定し、斥けて、積極的無と消極的無だけに肯定的な評価を下しているようにみえる。

 九鬼が否定した絶対無と欠性的無には共通点がある。
 それは無化する無であるという点である。
 絶対無は自らを無化して存在へと転じる。
 欠性的無は他を無化して何かに転じる。
 他方、積極的無と消極的無は無化しない無であって、無いとはいっても何らかの存在を主張し、具体的な何者かでありつつ、現実的存在あるいは可能的存在に向かって肯定的な生成途上にあるものである。つまりそれは存在しつつある無、無では無くなりつつある無、潜勢態にあって有化しつつある無、生成的な無である。

 積極的無・消極的無はそれぞれ肯定的無・否定的無と言い直すことのできる概念である。
 つまりそれは肯定・否定の二分法が既に成立している段階でいわれている無であるに過ぎない。
 わたしの考えではそれこそが本来的な無、存在に対立する恐るべき無ではなくなってしまった無であるに過ぎない。

 寧ろ絶対無や欠性的無の方こそが本来的な無、無化する無の牙を失っていない、荒々しい無としての無であるように思われる。
 それは存在であろうとするよりは寧ろ無であろうとするような無である。
 積極的無や消極的無は存在に咬みついてそれを抉り取ろうとするような鋭い牙を抜かれて存在の飼犬に成り下がったような堕落した無であるに過ぎない。

 九鬼は無を上記のように三つに区別する一方で、存在を可能的存在と現実的存在に区別する。
 可能的存在は本質存在を意味し「xは~である」という仕方で言うことのできるものである。
 現実的存在を九鬼は実存ともいうが「xはある」という仕方で言うことのできるものである。

 可能的存在の意味と性格は、本質-普遍的-超時間的で必然的な「それ自身によるκαθ'αυτο」存在を意味する。
 現実的存在は、これに対して存在-個体的-時間的で偶然的な存在である。
 つまりその存在は「偶然による(κατα συμβεβηκο )」ものである。

 九鬼にとって現実的存在ないし実存の核心的意味は偶然性である。
 可能的存在ないし本質の核心的意味は必然性である。

 九鬼はヘーゲルとは違って必然性を可能性と現実性の統一であるとは見ない。
 必然性は可能性の極大であるが、それだけの力によっては現実性をもちえない。
 逆にその極大が不可能性であるような偶然性において現実性が見いだされている。

 九鬼は偶然性と必然性を対立させている。そして可能的存在と現実的存在を易の陰と陽に準えながら同一の太極に帰属する相対的存在として把握している。両者を統一する形而上的絶対者は「必然-偶然」者として全体概念を与える。

 それを九鬼は「運命」と呼んでいる。
 運命は必然性と偶然性、可能性と現実性を統合するものである。
 ここにおいて九鬼は最初に否定していた絶対無の懐に舞い戻りそれを肯定している。
 だがそれを必然性として見ているのではない。
 むしろ必然を乗り越えるものとして見ている。

 可能的存在と現実的存在の総和である存在の全体がその絶対無の内に運命的に消え失せる境位において九鬼が肯定しているのは寧ろ無である。
 しかしこの無はもはや否定をその内に含んでいないような無である。
 すなわち彼は全体概念において何かしら存在の必然性に打ち勝つような不可能性を肯定している。

 偶然性の哲学者として知られている九鬼周造の核心的問題は偶然性の極大であるところの不可能性にある。
 不可能性は神の様相であり、美の極致であるといえる。
 彼は寧ろ不可能性の哲学者、不可能性の形而上学者であったと考えた方がよい。
 九鬼の主著である『偶然性の問題』は、寧ろ「不可能性の問題」を追及している。