他人の節穴を通して自分を見てはならない。それは死を意味する。

 この他人の節穴は〈別人〉と呼ばれる。
 〈別人〉は〈他者〉ではなく〈自己〉でもない。
 それは或る種の空なる括弧で、〈他者〉にも〈自己〉にも憑依く。
 それが憑依くとき、人はその心を失う。魂が殺される。
 〈別人〉は殺人させる姿のない殺人鬼である。

 〈別人〉はみにくいものである。
 しかし、この〈みにくさ〉は〈醜さ〉と同じではない。
 〈みにくいもの〉は醜悪なものと不可視なものとの狭間にあって、
 その醜悪さが不可視にされているその見えにくさのなかに隠れている。
 この見えにくさの〈にくさ〉は
 憎悪(憎さ)と困難(難さ)の両義性をもつ曖昧なものである。

 〈みにくいもの〉は殆ど不可視であるが、
 その不可視さは完全なものではない。
 つねに僅か、その〈はじ〉を覗かせる。
 〈みにくいもの〉はその〈はじ〉を通して己れを告げる。

 〈みにくいもの〉はチラチラと覗くトリヴィアルな切れ端であり、
 事物なき輪郭であり、存在なき様相である。
 そして〈みにくいもの〉は〈恥ずかしいもの〉である。

 〈別人〉というみにくいものは〈恥〉である。
 それはとても嫌らしいものである。

 〈別人〉というみにくいものは〈嘘〉である。
 それはすべてを嘘に変えてしまう。

 嘘とは美しい心を損なうものである。胡散臭いものである。
 白々しいものである。心ない言葉である。
 そこには実体のない形式だけのうわついたそれらしさがあるだけだ。

 それはシミュラークルと同じではない。
 それどころかそれは形骸であり、幽霊であり、
 実体なき空虚な同一性の永劫回帰であるに過ぎない。
 それはいかがわしい蓋然性である
 プロバブリティ(pro-Bubblity)であるに過ぎない。

 嘘とはその口の虚しさである。
 子供は敏感にそれを察知し、警戒し、身構える。
 童心というものはみにくい嘘を何よりも憎むものだからである。

 「この男の言っていることは全部嘘だ、たとえ真実でもこの男の口から語られるとすべて嘘になる、この男は嘘を言うためにだけ生まれてきたような人間なんだ。」(村上龍『イビサ』講談社文庫 p50)

 「あなたにとってぼくは罠なのです。あなたにすべてを言ってみてもむだなことでしょう。ぼくが誠実になればなるほど、それだけあなたを欺くことになる。ぼくの率直さがあなたを捉えてしまうでしょう」
 「お願いですから理解してください、ぼくからあなたへ伝わるものはすべて、あなたにとっては嘘でしかない、なぜなら、ぼくとはすなわち真実だからです」
(モーリス・ブランショ『至高者』エピグラム 天沢退二郎訳 筑摩書房1970 )


 〈別人〉とは、言葉を虚しくし、
 損なってしまうような悪魔的で絶望的な他者性である。

 〈別人〉に憑依かれてしまった人は、
 嘘しか言わず、嘘しか聞くことはない。
 そして、まさに〈他者〉を苦しめるのである。
 言葉にはその内容が真実である以上のものが必要なのである。
 それは人格である。

 〈別人〉という虚偽の人格が立ち塞がるとき、
 言葉と共に心が破壊される。

 村上龍とブランショは共にこの邪悪な〈他者〉のニセモノに直面している。
 そして『イビサ』と『至高者』という二つの小説は
 実は非常に深いところでよく似ているのである。

 この二つの小説は破滅的なカタルシスをもつ
 現代の優れたビルドゥングスロマンである。
 『イビサ』のマチコは手足を切断されディスコの飾り物のダルマになり、
 『至高者』のアンリ・ソルジュは女に撃たれて殺される。
 しかしそれにも拘わらずこの二人の破滅は敗北ではない。
 それどころか偉大な勝利なのだ。
 死に際にソルジュは〈今、今こそぼくは語るのだ〉と歓呼を上げる。
 マチコは歯にペンを挟んで父親に手紙を書き、
 歯と骨をテーマにした絵を描き始める。

 それは〈嘘〉に奪われた言葉、奪われた自己表現の取り戻しである。
 まさにそれこそ彼らが求め続けていたものに他ならないのである。

 嘘のない次元、そこに脱出して、
 もはや損なわれることのない自己表現を享受すること。
 それこそが真に自分が自分であるということなのである。

 ところが彼らはそれをそんな大きな代償を払うまでは
 決して手にすることができないでいた。
 まさに毎日のように、それを嘘のなかに、
 取り澄ました別人どもによって剥奪され続けてきたのである。

 己れの語る力の取り戻し、語る主体への至高の復帰、書くこと、
 それは別人に対する戦いである。
 自己の人格を、人間の尊厳をかけた戦いである。

 書くことは戦いである。思考することは戦いである。
 人間は己れを表現しなければならないのである。
 思考は、作品は、戦いとられねばならない。

 はげしく己れ自身へ向かって戦いとられた言葉だけが美しい。
 さもなければそれは屑に過ぎない。

 書くこと、思考すること、語ることは、戦いである。
 それは苦しい戦いである。しかし、それこそが生きることである。
 己れの言葉であることこそが生きて生き抜くということである。

 その苦しみを知る人だけが愛を知る。
 空々しい知を愛するのではなく、愛を知ることこそが
 真の哲学であり、真の文学であり、真の人生なのだ。

 人間が人間であるとはそのひと自身に他ならない者であるときである。
 それは自己同一性(identity)ということではない。
 語る主体であるということは、
 自己同一性なき全き単独的人格の尊厳の問題なのだ。

 むしろ自己同一性なき次元においてこそ、
 真のわたしであることは起こるのである。

 この意味においていう〈わたしはわたしである〉という出来事は、
 わたしが空虚な同一性によってわたしへと回帰するという〈同じであること〉、
 すばわち自同律(A=A)などではない。

 埴谷雄高が断固としていったように
 〈自同律の不快〉こそ真のわたしであろうとする魂の渇望の絶対条件なのだ。
 むしろ自同律など別人に言質を与えるだけのものでしかないのであるから、
 廃棄処分にしてしまえばいいのである。

 わたしはわたしの自同者なのではなく、非他者でなければならない。
 非他者であることは己れの心をもつということである。
 己れの心の創造者であるということである。