単なる出来事と行為を峻別するものは何かについて、現代アメリカの分析哲学者ドナルド・デイヴィドソンは〈行為者性 agency〉という優れた概念を提出している。彼は次のように問うている。

 人の人生におけるいかなる出来事が行為者性(agency)を示すのだろうか。彼の生涯において生ずる単なる事件(happenings)と対比した場合、彼の行為(deeds)や彼のなしたことはいったい何なのだろうか。そして、彼の行為を他のものから区別する基準は何であろうか。
(ドナルド・デイヴィドソン『行為と出来事』服部裕幸・柴田正良訳 勁草書房 六六頁)

 デイヴィドソンの行為者性の問題提起が鋭いのは、単なる出来事と行為者に帰属する出来事(誰かの行為)を識別する場合にわれわれがよく陥りがちな次のような文法的錯覚を批判している点にある。

 個別化された出来事は通常、動詞(自動詞または他動詞)によって表現される。

 例えば「彼は走る」のような能動文の場合、主語「彼」が「走る」という出来事を行為たらしめる行為者=主体であるとわれわれは考える。
 また「わたしは彼に殴られた」のような受動文の場合、目的語「彼」が「わたしは殴られた」という「わたし」にふりかかった出来事を「彼」の行為たらしめる行為者=主体であるとわれわれは考える。

 そこからわれわれは能動文における主語や受動文における目的語を出来事の行為者であると考え、更にまた、主語もしくは目的語に行為者性を帰属させているか否かに応じて動詞を自動詞や他動詞に分類できると考える。

 しかし、能動文の主語や受動文の目的語として表現される主体が、必ずしも動詞で表現される出来事を支配する行為者であるとは限らないし、またそのような主体の有無によって単なる出来事から行為を識別することはできない。

 例えば「わたしは気絶した」は「わたし」の行為であるとはいえない。
 むしろそれは「わたし」の身にふりかかった事件(ハプニング)である。
 「気絶する」は自動詞だが、主体「わたし」はその動詞の行為者とはいえない。
 むしろその自動詞の受動者(事実上の目的語=対象 object)としかいえないだろう。

 また、実際には文で記述されるある出来事が、主体の創始した行為であるのかそうではないのかの識別が難しい場合が多い。

 デイヴィドソンの分析の鋭さは、上記のように明らかに主体と行為者が齟齬している場合を示している点にあるよりも寧ろ、この出来事と行為の境界の明確な線引きのできない曖昧さに注目する点にある。
 彼はこの出来事とも行為ともいいにくい曖昧(決定不能)な例を幾つか挙げている(彼はまばたきをした、ベッドから起き出た、咳をした、片目をつぶった、汗をかいた、コーヒーをこぼした、敷物につまずいた、等)。これらの事例においては動詞で告げられている以上の情報がなければ、それを行為か非行為(単なる出来事)かを判別することはできない。

 デイヴィドソンは出来事を行為たらしめる行為者性を識別する基準は何かを問いたずねる。

 彼が第一に発見するのは意図の有無である。
 例えば敷物につまずくことは通常は行為ではないが、わざと(意図的に)なされたのなら、それは行為であるといえる。しかしこの基準だけでは十分でないことを彼は直ちに認めている。

「意図は行為者性を含意するが、その逆は成り立たない」(ibid.六七頁)

 つまり、意図的になされたわけではなくとも行為と看做されるものがある。

 デイヴィドソンはそれを間違いや失敗や誤解に見いだす。
 例えば計算間違いは通常意図的行為ではないがそれでも行為である。
 誤りを犯すこと、しそこなうことを意図してそうする人間はいない。
 デイヴィドソンは皮肉めいた言い方で「フロイト的なパラドックスを除けば」と付け加えるのを忘れない。

 実はこのことは少々興味深い。
 フロイト流の説明としてよく知られるものに「うっかり」は実は無意識的な「わざと」だというものがある。例えばうっかり傘を忘れるとは、実はそれを口実にしてその傘を忘れた場所にもういちど来たいからなのだが、その欲望は抑圧されて意識化されていないだけだ、とか。書き間違いや言い間違いにも、無意識的欲望の暗示的ないし象徴的な意味表現をなしているのだ、とか合目的的に何でも意図が達成された主体の行為だとしてしまう超論理である。
 これが極端化するとユング的なシンクロニシティの世界になってしまう。

 つまりあらゆる出来事の背後に意図があり、それは何者かの行為となる。
 出来事と行為の区別はつかなくなり、すべての出来事は意図的行為となる。

 するとその意図をわれわれは発見(想像)しなければならなくなるし、また、行為者を見いださねばならなくなる。
 
 よく陥る錯視の陥穽だ。
 宗教はここに発している。

 つまり、われわれはあらゆる出来事を神という行為者の行為(神業)と看做し、更にそこに隠された意図(神の意志や経倫)を深読みすることになる。
 更にこれが極端化するとパラノイアの世界になる。

 デイヴィドソンが最初に批判した主体と行為者の同一視をここでやってしまうならば、つまり〈わたし〉は〈神〉なのである。

 意図が成就する。

 例えば、死ねばいいと呪っていた奴が、事故死すると、それはわたしが神のごとき超能力によって殺したのだということになる。

 或る場合には、これは非常に精神衛生によいことである。
 しかし、憎んではいたが死ねばいいとまでは思っていなかった奴が死んでしまったとしたら、不幸な動揺がやってきてしまう。

 それは良心の呵責となり、自己破壊的な結果をもたらす。
 あらゆることを己れの意識せざる意図の成就であると解釈することは、己れを神にするが同時に悪魔とも看做さねばならないという怪奇な結果をもたらす。
 なにもかも自分のせいだと思い込み、憂鬱で絶望的で不幸な自虐的メシアコンプレクスに苛まれ苦しまねばならない。

 ドストエフスキーはこの世界を見事に描ききっている。
 例えばイワン・カラマーゾフの悪魔はその種の超論理の徹底から生じてくるものである。

 自分が手を下した訳でもないのに、イワンは憎い父親が殺されたことを、まるで自分が犯した罪であるかのように恐れ苦しむ。
 イワンは愚かである。
 憎んだだけで人は死なないし、そのことを自分の咎にして心を責めるべきではない。
 彼は全く無罪であり、悪人ではないのだ。
 逆に自分を悪人だと思う程に感動的な善人なのである。

 イワンは悪魔的な人間ではなく、清純な優しい人である。
 紛れもなく彼はアリョーシャの血を分けた兄なのである。
 イワンの狂気と苦悩は愚かしいが偉大である。
 しかし、まさに彼のような人のためにこそ神は必要なのだ。
 アリョーシャが狂わないで済むのは神を自分と切り離すことができるからであり、また、神を信じることができるからである。

 わたしは意図的に脱線した。
 これは別に書き間違いではないのでわたしの行為である。
 後にこの逸脱の方位の奥にあるものを問題にする意図があってしたことである。
 しかし、わたしは再度デイヴィドソンの論に戻らねばならない。

 デイヴィドソンはフロイト的な方向には訣別している。
 しかし、にもかかわらず、彼は別の仕方で、誤りを犯すことをも意図的行為のなかに回収しようと努力する。
 誤りは確かにそれ自体としては意図的ではないが、別の意図的行為の中に含まれることができ、それを通して、行為者性をもつものと考えることができる。彼は言う。

 このことを理解するためには、各々の場合において誤りを犯すことは何か別のことを意図的になすことでなければならない、という事情を知るだけで十分である。たとえば、読み間違えることは、望まれていることを達成しないとはいえ、読むことでなければならない。命令を誤解することは命令の解釈である(しかもこの場合、命令を正しく理解しようという意図を伴っている)。計り違いはやはり計ることであり、計算違いは(うまくいかない計算ではあっても)なお計算なのである。(ibid.六八頁)

 デイヴィドソンは更に考察を進めて「ある人がある行為の行為者であるのは、彼のなすことを意図的であるのように見せる相の下でそれを記述しうる場合である」と言う。
 このとき、彼は行為主体の内面的意図が実際にどうであるのかにもはや関わりない次元に脱出していることに注目しなければならない。

 彼の観察は外面的である。
 外面的にある行為を行為者と看做される人物が意図的にそれをやっているように見えるときに、行為者性は発見されている。
 過ちや誤りについての考察が、デイヴィドソンを意図の有無(行為者の内面)から意図的であるかのように見せる相(行為者の外面)へと連れ出す。

 この解答を可能にしているものは、意図の帰属に関する意味論的な不透明さ、すなわち内包性である。ハムレットは垂れ幕の後ろにいる人物を意図的に殺害するが、ポローニアスを意図的に殺害するわけではない。しかし、ポローニアスこそ垂れ幕の後ろにいる人物なのであるから、垂れ幕の後ろにいる人物をハムレットが殺害することは、彼がポローニアスを殺害することと同一である。それ故、意図的な行為のクラスというものが存在する、と想定することは誤りである。もしこの誤った仮定を採用するならば、同一の行為が意図的であると同時に意図的ではない、と言わなければならなくなるであろう。(ibid.六八~九頁)

 デイヴィドソンは、意図の帰属によって行為者性の基準を明瞭にすることの困難さを、しかし、このことによって発見している。

 行為者性の基準は、意味論的には内包的であるのに、それは不透明で曖昧であらざるを得ない。
 これに対し行為者性の表現の方は、全く外延的な性格をもっている。
 そのことから彼は「行為者性の概念が意図の概念よりも一層単純で基礎的である」ことを発見する。

 そこから彼は意図の概念によらない別の行為者性の基準を探求してゆく。
 そこから彼は因果性の概念によって行為者性の基準をとらえようとしてゆく。
 即ちある出来事の原因として行為者を見いだそうとしてゆくのである。
 それは、意図(目的)によってではなく原因(責任)として行為者を発見して行こうとすることである。この両者の間にはおおまかな対称性がある。

 意図の帰属は典型的には弁明と正当化であり、行為者性の帰属は典型的には非難、ないし責任の所在である。もちろん、この二種類の帰属は違いに排除しあうものではない。なぜなら、ある行為がなされた際の意図を述べることは、また同時に、しかも必然的に、行為者性を帰属させることになるからである。(ibid.七一頁)

 しかし、ここにおいても興味深い難問が出来する。
 出来事因果性(event causality)と行為者因果性(agent causality)の差異の問題が発生してしまうのだ。

 出来事因果性の場合、つまりある出来事Aが別の出来事Bを惹起する場合、AはBの原因と看做すことができる。出来事の因果の連鎖はこの方式で連続的に創ることが出来る。

 例えばムルソーがピストルを撃つ(A)。弾丸がアラブ人に刺さる(B)。アラブ人は死ぬ(C)。

 この場合は、Aという出来事がB及びCの原因であるとみることができる。

 だが、Aにおける行為者ムルソーと原初的(primitive)行為との関係(行為者因果性)を出来事因果性の論理で解明することは出来ない。
 それは行為者と出来事を混同してしまうことになりかねない。
 だが行為者と出来事は明らかに違う概念である。
 如何にして出来事は行為となるのかに行為者因果性の論点はある。

 もうひとつの不都合は、上の例でいうと、「ムルソーがピストルを撃つ」という出来事Aに「アラブ人は死ぬ」という出来事Cの原因を責任追及できたとしても、行為者ムルソーを「アラブ人を殺した」行為の責任者としてつかまえることができなくなってしまうという点にある。

 Aという原初的行為は行為者ムルソーの行為であるとしても、出来事(結果)Cはムルソーの行為とは看做せないのである。