行為(action)も当然、実体=主体の身に起こる出来事であるが、実体=主体はその身に起こる出来事をその自己から自発的にまた能動的に創造的に出来させことを通して行為の遂行者である行為者となるのだといえる。

 行為者とは出来事を行為化することによって出来事を支配する者のことである。
 すなわち、その身に起こる出来事をその身から起こした出来事へとその出来事が起こるのに先立って転回することによって、つまり出来事をそれが起こることに先立って原因的に己れへと引き受け、己れをその出来事の原因としつつ、出来事を結果させるものを行為者ということができる。

 実体=主体の身に起こり彼に帰属する出来事として、われわれはざっと属性・偶有性・様態・行為を一覧的に数え上げた。

 しかし、実体=主体の身に起こる出来事はこれだけではない。
 われわれは一つの大きなものを見落としている。それは反応(reaction)である。

 反応は行為の裏面をなしているが、行為よりもその裾野は大きい。
 そして反応は行為よりもはるかに多く頻繁に起こっているものである。

 出来事は人間を触発(affect)し、さまざまな反応を惹き起こす。
 そして反応自身が出来事である。
 それはまさに実体=主体の身の上に現に起こっている進行形の出来事である。

 行為(action)の能動性(activity)に対し、反応は受動性(passivity)であるといえる。
 しかし反応は能動的でないとしても活動的(active)でないとは必ずしもいえない。

 反応は行為とは明確に異なった、多くの場合対立的・対照的に語られることの多い、主体の動作または活動性の二様態であり、行為が能動的運動ないし能動態として自己原因的である一方、反応は受動的運動ないし受動態として自己結果的である。
 また、前者において自発性や積極性が語られる一方、後者においては他動性や消極性がよく語られる。

 また、論理的な様相性で見ると、行為化した出来事は主体にとって可能的=偶然的である。つまりそうしないことも出来る、他のことをすることも出来るという、他の場合・無の場合を可能性(有り得ること)として、選択の余地として行為者(主体)は自己のうちに保持しつつ行為する。

 しかし、反応の場合は、反応者(主体)はそのような選択の余地を自己のうちに持ってはいない。
 反応化した出来事は主体にとってそうする他にないものである。
 つまり不可能的=必然的な様相(様態)において、主体はどうしてもそうせざるを得ない、しないではいられないという衝動に駆動され、そうすることしか出来ない、その他のことはすることが出来ないという仕方で、反応行動の運動に引き込まれていっている。

 行為は創造的で自発的な運動様態であるのに対し、反応は生成的で受容的な運動様態である。
 行為が何かを〈する〉ことであるのに対して、反応は何かに〈なる〉ことであるといってもいい。

 例えば、何かを赤くすることは行為であるが、赤くなることは反応である。

 しかし、例えば、「自らを赤くする」というように、再帰動詞的な表現で運動が語られる場合、「赤くする」という行為はそのまま「赤くなる」という反応に切れ目なく連続していってしまう。

 再帰動詞的表現はフランス語などに特徴的に多く見いだされるものだが、そこでは動詞が表現している動作が、一体、自動詞的なものなのか他動詞的なものなのか、能動的なものなのか受動的なものなのか、これは行為なのか反応なのかが渾然として識別不能の状態に陥るのである。