5.再帰文と直接性

 再帰文は能動文と受動文の境界を曖昧にぼかしていってしまう。
 それは能動を受動にすりかえつつ、受動を能動にすりかえてしまう、意味のめくらましの幻術である。

 再帰文と同様の意味論的曖昧さを持つ言葉の文〔アヤ〕は日本語にもある。
 助動詞「れる・られる」は自発・可能・受動・尊敬のいずれにも用いられ、文脈をみなければそれがどの意味で使われているのかを判定することが難しいことがままある。

 しかし、わたしの考えでは、「れる・られる」の意味論的不明性は見かけ倒しのものである。
 そしてそれはフランス語の再帰動詞の作り出す奇妙な円環構造、能動から受動へ受動から能動へと方向転換的に主体の位相及び意味の様相をシフトし切り換えるループの構造と本質的はさほど異なるロジックをもっているとは思われない。
 「れる・られる」のロジックと再帰動詞のロジックは共通なのだ。

 フランス語の再帰動詞(「se+動詞」という形をとる)の場合、現実態としてのアクチュアルな出来事が、日本語の助動詞「れる・られる」の場合、潜勢態(可能態または能力)としてのヴァーチャル(仮想的ないし名目的)な出来事が、それぞれの主題になっているという見方が成り立つ。

 このように出来事自体における現実態・潜勢態という生成実現論的な様相性の相異はあるが、それを今は取り敢えず括弧にいれ、出来事とその帰属という観点から捉えるなら、両者に通底する共通のロジックを浮彫りにすることができる。
 そこで、基本的になるのは現実態としての出来事の帰属に関わる再帰動詞の方である。

 まず再帰動詞のロジックから解明してゆくことにしよう。
 再帰動詞では「みずからを~する」と「おのずから~になる」が相互に交換されている。

 再帰動詞における再帰代名詞が表現しようとしているものは、単に文の主語の位置に表示された「わたし」や「彼」との同一性であるような「自己」「自身」「自分」であるのみならず「自然」をも意味する。

 再帰代名詞は文法的には人称代名詞かも知れないが、意味論的な機能からみればむしろ副詞である。
 そしてこの副詞はちょうど漢語の「自」が表現するような直接性の様相(みずから・おのずから)を表現している。
 それは、通常普通にいう能動性・受動性の分節に先立つ直接性・自体性の様態を示しているのであって、能動的でもなければ受動的でもないということができる。

 「わたしは自ら赤くする=わたしは自ずと赤くなる」は、わたしが能動的・自発的に赤化することでも受動的・他動的(使役的)に赤くなることでもなく、わたしが直接的に赤くなること、直ちに赤くなること、それ自体として赤くなることである。

 わたしはここで様相論理学でいう偶然性・必然性・可能性・不可能性の四つのモードに節分けられた様相分割とは別に、しかしそれと密接に連関しつつ重なり合うものとして能動性・受動性・直接性・間接性の四つのモードに節分けられた様相分割が、朧げに見えてきたことをここにノートしておく。
 様相のこの二つのカルテットがどのように連関するのかは非常に考察意欲をそそる思考課題ではあるが、それは後に譲る。

 漢語の「自」は「自己」「自然」「自由」に跨がる文字=概念象形であるが、「みずから・おのずから」の両義性においてその直接性を能動性と受動性へと分岐させている。

 「自」の能動相が「みずから」でありそれは「自分で」という副詞的位相での意味転化を通じて「自己」の概念に通じてゆく。
 他方、「自」の受動相が「おのずから」でありそれは「ひとりでに・自然に」という副詞的位相での意味転化を通じて「自然」の概念に通じてゆく、と一応そのように見ることができる。

 しかし、「おのずから」には「ひとりでに・自然に」というのとは別の意味の方位があることを見落としてはならない。
 それは「もともとから・元来」という意味の次元ももっている。

 恐らくそれはわたしが直接性との対比において仮に「間接性」と名付けておいた動作性の第四の様相概念に関わっている。
 そして、わたしの哲学的直観では、それはまた「自由」の概念に恐らくは細く暗い路を通って通じてゆく何かをもっている。しかしこのことはまだ明瞭とはなっていない。

 漢語の副詞「自」の第三の意味は、「自」の前置詞としての用法「自り[より]」に関連している。それは場所や時の〈起点〉を示す言葉で「~から」という意味である。
 つまりそれは出自・起源・由来・来歴に関係している。
 転じてそれは原因や過去や根拠や理由や基礎や開始や出発点に繋がる。
 自由とは自己理由であると解するとすれば、それは直接性の「自」がみずからよりの離れ去りとして間接相へと転化してゆく過程で、その概念の起源を与えるのだという風に、まだ苦し紛れな言い方ではあるがそのように語れなくはないように思われる。

 「自」は元々、人間の〈鼻〉を描いた象形文字である。
 人は「私が」と自己指示(自己言及)するとき鼻を指すことから、この他者の面前での自己言及行為から転じて「自分」という観念を意味する語に用いられるようになったという。
 このよくある語源説明は示唆に富んでいる。

 自己言及性は自己の概念形成に先立ち、しかもそれは他者の面前で他者のために遂行された対他的行為だったのである。

 他者に対して己れを〈ここに〉と示す指示行為、つまりダイレクト(指示的・方向的・直接的)な行為として自己言及性のループは作られ、更にその後で、その自己言及性をトポスとして、そこに〈自己〉の観念が産み落とされたのであると考えることができる。
 自己言及性は単なる主観にとっての自己対象化ではない。そうではなくて、それは単なる多くの場合のありえるなかでの指示行為の一例であったのに過ぎない。

 わたしに〈この私〉ということを教えてくれたのは、わたしが彼に対して〈私〉を〈この私〉として示さざるを得なくしてくれた他者であり、他者からの視点である。
 他者はわたしを見る。その他者にわたしを〈この私〉として教えるためには、わたしはたとえそれが不可能であるとしても、その他者の視点に身をおいて己れを指さして「それはこの私です」と示さざるを得ない。

 わたしはそのときに他者がわたしを見ることが出来るような(可能的な)仕方(モード)において〈私〉を〈このこれ〉化するのである。
 このとき他者は、わたしにとって、わたしの他者でも有り得る可能性、換言すれば、他者の可能性であり可能的他者としてわたしに起こった出来事であるといえる。
 しかし、そのときにわたしは決して現実的に他者であったわけではないし、他者であることの現実的な不可能性に直面していた筈である。

 しかし、この他者ではありえないこと、他者であることの不可能性は、必然的な出来事である。
 わたしは他者であることが出来ない。
 それは単純に「他ならぬ」という意味での存在論的非他性とは混同されてはならないような「他ではありえない」という不可能的=必然的な意味での非他性の体験である。

 通常凡庸な思考が考えるような非他性は単にその裏面が同一性(自己性)に密着的に接している表裏一体のものであるに過ぎない。
 つまりそのような意味での「他ならぬ」は簡単に「私である」に裏返るような代物であるに過ぎない。

 このような非他性は殆ど非他性としての独自の意味さえもっているとはいえない。
 このような非他性は同一性と対立的な局面に立つことさえできない。
 非他者は即ち自同者なのである。
 色即是空・空即是色と安っぽいお題目に唱えられるような〈即是〉としての即自性(自体性)、つまり単なる直接性には、〈即是〉(即ち是れ)のなかに名目的に唱えこまれている〈これ〉の本当の難解さが消されてしまっている。