3.様相と様態

 さて、四値的な様相論理学的な様相概念としての偶然性(contingentia)と属性(可述語)の主語=実体に対する本質的/非本質的(真/偽)帰属を問う二値的な述語論理学的な概念としての偶有性(accidentia)は確かに思考のモードにおいては異なるが、意味のモードから見てゆくとそれほど異なる概念であるとはいえない。

 主体=実体から独立的である純粋な様相=出来事である偶然性(contingentia)が、主体=実体の属性としてそれに帰属される(内包=性質化される)とき、つまり様相が実体の様態として形態的に徴表されるとき、それを偶有性(accidentia)といっているだけのことなのである。

 偶有性とは事物の或る属性において発見された偶然性であるに過ぎない。それは事物に偶然的な様相において帰属させられた様態のことである。

 様態とは実体において形態化または事態化(現勢化)された様相、実体の自己表現に転化した様相であるに過ぎない。

 様相と様態の違いは、その帰属先が動詞及び補語で表現される述語的事態=属性(様態)であるか、主語の位置に置かれた実体であるかの違いであるに過ぎない。

 つまり簡単にいうと、様相は動詞や形容詞の形で表現された属性(~である事)修飾する「副詞」(adverb)であるのに対し、様態は名詞の形で表現された実体(あるところの物)を修飾する「形容詞」(adjective)なのである。

 様態は実体に直接的に帰属することによってその実体を直接的に形容する属性となる。
 他方、必然的・偶然的・可能的・不可能的という様相概念は普通副詞的であって、出来事や行為や属性や様態に直接的に帰属しつつ、実体にはそれを通して間接的に帰属するか、或いは全く帰属するとはいえないかのいずれかであるといえるだろう。

 しかし、それが何かに付け加わった性質であって、それ自体としては何か他のものに帰属しない限りはありえない、つまり〈そのもの自体〉が決して自立的・実体的には現勢化しえないという点においては様相も様態も同じなのだ。

 様態も様相も出来事の状態を表現する形容であり、形容としての副次的な出来事の出来であるということができるだろう。
 そこで、例えば「赤い」「四角い」という状態は、実体として発見された事物に帰属するから「様態」と言われる。また「明るい」「近い」「速い」という状態は、そこにある実体的な事物には帰属させることはできず、それを離れた出来事を表現するから「様相」と言われる。
 しかし、それも場合によりけりである。
 同一の状態が事物の様態として現れることもあれば、出来事の様相として現れることもある。
 それは要するに帰属させるというわれわれの知的な「行為」次第でどのようにもなりうるのである。

 実体に現勢化された限りでの様相(様態)は、必然的か偶然的かのいずれかの仕方=流儀(modus)で実体に帰属=属性化される。
 というより、性質としてそれが問題になる限りは、その実体への帰属様式は必然的か偶然的か、実体がそれなしではありえないようなそれ(必然的属性=固有性)であるか、実体がそれなしでもありうるようなそれ(偶然的属性=偶有性)であるかのいずれか一方としてしか問題にはなりえないのだといえる。

 そこでは必然的に、四様相性のうちの可能性と不可能性の二値は切り落とされてしまわざるを得ない。可能的属性や不可能的属性は、属性が実体の現に有する性質として問われている限り、そもそも属性の様相として考えることはできない。

 属性とは実体にその性(性質)として属する限りでの帰属の様式のことである。

 しかし、様相が実体に帰属する様式は性質=属性化だけではない。

 実体に帰属されその事柄と看做されるものは性質のように静態的〔スタティック〕なものだけではなく、運動のように動態的=力動的〔ダイナミック〕なものが他にある。
 そこではまさにダイナミック=デュナミス的(可能的=潜勢的)な様態における帰属の問題、つまり可能性や不可能性の様相が様態化する場合が考えられる。
 実体=主体が人の場合、それは行為という運動的属性の帰属の問題となって現れるのである。

 属性概念を運動的属性の次元まで拡張すると、われわれは必然的属性・偶然的属性に加えて可能的属性・不可能的属性をも属性概念の内側で考えることができるようになる。
 それは或る意味では、性質と運動の区別を抹消して、性質を静止運動として運動概念の一様式として把握し、また逆に運動を動態的性質として性質概念の一様式として把握することである。

 本質的属性(固有性)と偶有性の概念は、必然的属性と偶然的属性と言い換えてよいものである。

 性質は運動的出来事の一種である。
 性質化=帰属化という運動的出来事が実体=主体の身に起こって、それが必然的あるいは偶然的な様相で実体=主体の「性質する」つまり「性質として所有する」という運動に引き受けられる。
 性質として所有するというのは行為の様式である。
 実体=主体は所有者=行為者として己れに到来した性質の帰属という出来事を主体的=行為者的に「我が事」へと内包するのだといってもよい。

 実体=主体は行為者として性質(静止的運動)を所有する(つまり或る性質をもつ)。

 また同様に、行為のような動態的性質についても同一形式の文で次のように表現することができるだろう。

 実体=主体は行為者として行為(動態的性質)を所有する(つまり或る性質をもつ)。

 この意味で「所有する」は、行為についても性質についても同一形式で記述することのできる根源的な行為として発見される。

 但し、言うまでもなく、この所有行為は形式的な行為であり、名目的な行為であるに過ぎない。
 そしてまたこの実体=主体のこの「行為者として」という行為者性は、飽くまで実体=主体にそのように読み込まれたものであるに過ぎない。つまり名目的行為者性であるに過ぎない。

 実際に行為としてなされているのは実体=主体による「所有」ではなくて、「帰属」の方である。