2.「偶然性の問題」の問題

 しかし、「不可能性の問題1996年試論」でも書いたが、様相論理学の内部において何をもって他の様相性を規定する基本様相とするかは実は全くどうでもよい問題であるに過ぎない。
 可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つの基本様相は全く同等の権利でそれをもって他の三様相を規定する根本様相となる資格を有している。

 九鬼は偶然性を表す独自の様相記号をデザインさえして偶然性の様相論理学めいたものを『偶然性の問題』のなかで披瀝しながら、可能性を根本様相とするアリストテレス以来の伝統的立場、不可能性を根本様相とするC・I・ルイスや、ルイスを批判して必然性を根本様相とするオスカー・ベッカーを相対化しつつ批判している。
 その批判は偶然性を擁護し、彼の言い方を借りれば「論理学の領域と体験の直接性との距離」を縮め「生に根ざす論理学」を造ろうとするためであるかもしれない。

 だが、だからこそ逆にこの水準で九鬼が争いを起こそうとするこの訴訟は愚かしく、むしろ全く場違いなナンセンスなものであるとわたしたちは考えた方がいい。

 九鬼のいうような「生」とは彼が『「いき」の構造』以来追求し続けてきたような「日本的性格」の主題系にそのまま接合していってしまうような、それこそ空しく「活き」の悪い文化ナショナリズム(天皇制)に吸収されていってしまう致命的な弱点をもった「生」でしかない。
 このようなことをいうとき、九鬼は実は三流のそれも出来損ないの国粋主義者でしかない(しかし三流のそれも出来損ないであることこそが九鬼を一流の出来の良い国粋主義者になるという最悪の野蛮から救っているのだということを直ちに申し添えておかなければならない)。
 彼は、別に日本や東洋の特産品でもありえぬ筈の「偶然」を殊更日本文化の独自性に性急に結び付けようとするとき、せっかく彼が日本などの助けを借りずに独自に創造的にコスモポリタンとして考え抜いた偶然性の問題を日本主義イデオロギーに単に短絡させ、特殊化して貶めてしまっているのである。

 何が正しい根本様相であるかという争いを様相論理学の審級で立てることは、丁度、言語学において日本語・英語・ドイツ語・フランス語のどの言語が正しい言語であるかと問うことと同じくらい幼稚で無意味な問題である。
 九鬼が偶然性を殊更日本文化の独自性だの東洋の思想的伝統だのに関係づけ始めるや否や、偶然性の問題はこの幼稚な水準に零落れてしまう。
 それは単にわれわれは日本人だから日本語が母国語であって、英語やドイツ語やフランス語で話されても意味が分からない、故に相手が言語を話しているとは思えないという主張をすることと何ら質的には変わらないのである。同様に「不可能性ではよく分からぬから必然性に改めろ」とルイスを批判したベッカーも英語の分からぬ幼稚なドイツ人の駄々を捏ねているのに過ぎない。

 しかし、日本語・英語・ドイツ語・フランス語がそれぞれに文化的独自性の異なる言語でありながら相互に翻訳可能であるように、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つの基本様相をそれぞれ根本様相とする四つの様相論理学は言語よりも容易に相互に翻訳可能なのである。
 そしてそこには言語のような文化的独自性など入り込む余地はない。
 それは記号表記されるからである。
 表記がどのような形であるかは、記号論理学にとって全くどうでもいい趣味判断(単なる美学)の問題であるに過ぎない。
 事は別に様相論理に限らず通常の真偽の二値を論理値として扱う記号論理学においても同じである。否定は〈~〉〈¬〉〈-〉どのように書かれてもその意味が変わる訳ではない。

 〈形象〉(表現)にこだわって、〈形式〉(構造)を見失う悪癖は、わたしたち日本人の悲しむべき文化的独自性である。

 例えば西欧の存在の形而上学を批判して老荘思想の〈道〉だの仏教的〈空〉だの所謂「東洋的無」の形而上学の精神的優位性などという滑稽なことを言う日本の学者は、虚無や空虚や否定の概念に東洋的・西洋的の文化的差異だの精神的優劣だのそれこそありもせぬものを捏造することが可能であるとよく妄想する。
 しかし、無が無であり、空が空であるならそこには全く如何なる差異(文化)もありえないのだということを彼らは単にナイーブに猿的に見失っているだけであるに過ぎない。

 わたしの考えでは、日本人が東洋的伝統に生半可に己れを位置付けるとき、むしろそのような時こそ西洋的なオリエンタリズムに西洋人よりも愚かな仕方ではまり込み東洋を見失ってしまっているのである。
 この日本型オリエンタリズムはしかし西洋的であっても十分に西洋的にすらなりえていない最低な思想態度であって、七〇年代のアメリカの勤勉なヒッピーたちの爪の垢でも煎じて飲んだ方がいい程度のものでしかない。
 日本人にはヨーロッパ人やアメリカ人のオリエンタリズムを嘲笑する権利もなければ批判する権利も全くない。
 例えば、禅を理解しているのは、カリフォルニアムーブメントの中でそれを積極的・実践的に内化してアメリカ的に洗練していったアメリカ人であって、単に禅宗の檀家であるだけでそれを全く実践していない癖に戯言めいた禅の公案を念仏的に繰り返して何かを説明出来た(うまくごまかせた)つもりでいるような怠惰な日本人などではない。

 わたしたちはまた西欧人を物質主義者といって嘲る権利を全く持たない。
 むしろ西欧人こそが精神主義者なのである。
 わたしたちは精神主義を西欧人たちから学んでいる。
 そのことを棚に上げる人間をわたしは認めがたいし、それ以上に断じて許しがたい。

 それはわたしたちの軽蔑すべき親の世代の卑怯で嘘つきで醜い日本人たちである。
 彼らは物を大切にしないばかりか精神も心も大切にしない。
 当然に折角人間たるべくしてこの世に生を享けたわが子をも大切にしてはいない。
 大切にするのはカネだけである。
 この黄色い猿ども、理性を欠いたエコノミニックアニマルどもをわたしは人間として愛せない。
 愛せることがある訳がない。彼らは人間の定義から外れている。
 人間は理性的動物であり且つ政治的動物であり、そして何より魂(アニマ)を持っていなければならない。しかし、経済的動物は理性も魂もなく、愛も知らず、思考することをせずに単に利害計算ばかりをしている。人間の物まね子ザルであるに過ぎないこのJAPどもは、単にヒトデナシなのであって、人間としての信用に全く値しないというべきである。

 日本には文化などない。あるのは単に産業という野蛮を無限に肯定し続けるための暴力装置と虚偽と憎悪と戦争=生存競争への特訓だけである。
 そして人間としての日本人をもし見い出すとすれば、それはこの醜い黄色い軍国主義の悪霊に憑依かれた白痴の猿どもの文字通りの絶滅の後に彼らから絶対的に進化した超猿的存在としてのみである。

 わたしはあくまで人間として、そして挑発的に敢えて〈ヒューマニストとして〉名乗り上げつつ言うが、このような猿どもには生存権すら認めがたい。この猿どもにはお互いに殺し合う以外の如何なる能力も備わっていないからである。
 健康で文化的で幸福な最低限度の生活をせよというアメリカ軍が折角親切に押し付けてくれた憲法の精神、つまり「人間になれ」という愛の命令すらも守れないような下等な猿どもに、更に反人間的社会を造るために、社会を一層悪くするために改憲を論ずる権利など全くない。

 わたしが九鬼周造に注目するのは彼が野蛮に過ぎない日本文化の成功したイデオローグではありえなかったその美しく栄光ある失敗と敗北の故にである。
 九鬼は日本に生まれながら日本人にはなれなかった男である。
 失敗した日本回帰であり、偉大なる故郷喪失であったからこそ九鬼周造の哲学には他のどんな日本の思想家にもない清々しい感動があるのだ。
 彼の哲学は寧ろ日本を引き裂いている。
 柄谷行人ではないが、まさにその可能性の中心に於いて九鬼周造を発見しつつ読んでゆくとき、わたしたちはそこに寧ろ近代及び現代の日本的野蛮(それは現在もあいもかわらず維新的で文明開化的で富国強兵的な『明治』という野蛮であるのだといえる)から脱皮しつつあった、折鶴のように端正な翅をもったしかし「いき」絶え、事切れた怜悧な思想の蝶の、大いなる宇宙的飛翔の断ち切られた可能性を見いだす。

 彼を殺したもの、それはわたしたちをもその内に閉じ込めて殺そうとする、脱皮するには余りに分厚く硬く重すぎる〈日本〉という軛のような蛹の鞘である。
 それはそこから飛び立たんとする翅を許さず、それを傷つけ歪め皺くちゃにし、ズタズタに引き破る。しかし、九鬼周造の格闘は、その同じ蛹鞘に閉じ込められているわたしたちにさあここから出てゆけといわんばかりにその骸の彼方に彼のこじ開けてくれた大きな出口への裂目を示してくれていさえするのだ。

 九鬼を日本が生んだ世界に誇れる大思想家であるなどというべきではない。
 例えば西田幾多郎などはそうであるかもしれない。
 だが、だとしたら西田幾多郎などは碌でもない奴なのである。
 わたしたちの一番撃破するべき敵なのである。
 それが何であれ日本を文化的に代表するような国際的文化人は、例えばそれがあの悲劇的で偉大な三島由紀夫であれ、やはり悲劇的な川端康成であれ、わたしたちが絶対に彼らの破滅的成功を見習ってはいけない絶望的存在なのである。
 つまりそれは必然的に〈日本的なもの〉、必然的に自然化せられた日本的様態(様式美)への同一化でしかないが故に。それは未だ日本的様態の属性化への可能性でしかないが故に。