〈出来る/出来ない〉というとき、
 われわれは己れを可能的行為者として立てながら、
 行為能力の帰属について話をしている。
 つまり出来事を自己の能力において
 所有するか所有しないかを語っているといってよい。

 これは可能的な出来事の可能的な行為化である。
 或いは寧ろ、
 可能的な出来事を現実的に引き起こす(行為する)ことなく
 その可能的な行為者(行為能力者)として
 己れに引き受ける(帰属させる)ということである。

 わたしは出来る、というとき、出来事はわたしから出て来る。
 他方、わたしは出来ない、というとき、出来事はわたしから出て来ない。

 しかしまたこれを飜して次のように言い換えることもできるだろう。

 わたしは出来る、というとき、出来事からわたしが出て来る。
 他方、わたしは出来ない、というとき、出来事からわたしは出て来ない。

 後ろの言い換えられた定式は、
 前のものと比較して明らかに意味が違っている。

 この場合、出来事は可能的な出来事ではなく、
 寧ろ現実的な出来事を言っている。
 現実的な出来事に関して、それがわたしの行為であるか否かを、
 つまりわたしがその出来事の行為者であるか否かを、
 行為者への出来事の帰属について語っている。

 出来事が起こる。そこからわたしが出て来るならば、
 それはわたしにおける行為者の発見ないし同定であり、
 その出来事のわたしへの帰属、つまり、出来事の行為化である。

 出来事が起こる。しかしそこからわたしが出て来ないならば、
 それはわたしにおける行為者の発見または同定の失敗ないし否認であり、
 その出来事のわたしへの帰属がなされないこと、
 わたしがその出来事を行為化しないことである。

 そこで、もし行為者を不定の別人に想定するなら、
 出来事はその不定の別人に想定的に帰属する。
 するとその出来事は行為化される。

 また逆に不定の別人に行為者を想定するのは、
 既に予めその出来事が単なる出来事ではなくて
 誰かの行為と看做されてしまっているからである。

 その出来事は既にして行為の範疇に入れられている。
 行為でないとしたら、その出来事は有り得ない。
 さもなければ有り得ないが故に、それは行為でなければならないし、
 行為者は必然的に存在しなければならない。
 行為とは誰かに引き受けられねばならない出来事であるからである。

 ところで、さもなくとも有り得るならば、
 その出来事は行為でなくともよいし、
 行為者としてわたしや別人が出て来なくとも構わない。

 出来事は単に現実的に出来するだけでは
 思考にとって有り得ない、あってはならないものである。
 思考にとって出来事は可能化されねばならない。
 それは有り得る出来事でもある必要があるのである。

 出来事はどんな場合でも有り得るものとして発見されねばならない。
 それは有り得る出来事、可能的出来事から出来する現実的出来事、
 つまり可能性の実現としての現実性でなければならない。

 出来事からは
 それが出て来る処(可能性の根拠)が出て来なければならない。
 そしてそのそれが出て来る処(可能性の根拠)は
 何かによって引き受けれれねばならない。

 自然がそれを引き受けてくれないなら、
 それは人為(行為者の行為)によるものと看做されねばならない。
 出来事を有り得るものたらしめるために
 誰かがそれを有り得させねばならない。
 それは誰かに出来ることにならねばならないのだ。

 出来事の可能性の帰属が自然に対してなされる場合、
 それは〈有り得る〉といわれる。
 出来事の可能性の帰属が人間に対してなされる場合、
 それは〈出来る〉といわれる。

 出来事を出来る主体が
 出来事の出て来る処として出来事から出て来なければ、
 出来事そのものが有り得ないような場合、
 出来事の可能性の帰属つまり出来事の可能化は、
 出来事の能力化、
 つまり出来事を意図的に起こし得る可能的行為者の
 誰かへの同定を必然的とする。

 出来事の能力化は出来事の可能化の一様式である。
 そして出来事の能力化は出来事の行為化に他ならない。
 しかしそれはまだ出来事の我有化ではない。
 出来事の我有化は、
 出来事の能力化=行為化の後で起こる別の出来事である。

 出来事の我有化というのは、
 つまり〈わたしは出来る〉ということの成立である。
 しかし出来事の能力化=行為化の段階では、
 単に出来事が行為に変換され、可能性が能力に変換されただけであって、
 まだそれは〈わたしは出来ない〉状態にある。

 それが〈わたしに出来る〉ようにしなければ
 〈わたしは出来る〉ということは成立しない。