わたしはレヴィナスから背教することを宣言しているが
それはレヴィナスに向かっての背教をも意味する
(むしろ本意はそこにある)。

背教するとは忠実さと愛がなければできることではない。
わたしはそもそも〈別人〉の問題を
レヴィナスから黙示的仕方で教わり学んだのである。
わたしはこのためレヴィナシアンたりえなくなったが、
それはわたしがレヴィナスに選ばれてしまったからである。

近さ、それは悲しみである。
余りに近すぎるが故に近さは絶対的距離となって炸裂し双方傷を負う。

レヴィナスにとってフッサールとハイデガーが
深く愛していながらそれ故に生涯それから逃れ
また戦い続け背教しなければならなかった運命の恩師であったように、
わたしにとってレヴィナスとハイデガーは
永遠にそれを忘れることのできない恩師なのである。

しかし恩とは何であるか。呪いの徴であり愛の痛みである。

わたしは誰よりも深くレヴィナスに傷ついた男である。
この外傷の哲学者はわたしを傷つけ内傷の哲人にしてしまったのである。

悲劇、それは辛いことである。
父とその嫡男の間には血塗られた宿命しかありはしない。
わたしはどこかのバカが自分を
フッサールの生まれ変わりだと言ったようにバカな台詞は言わないし、
またどこかの別のバカが己れを埴谷雄高の最後の読者
(それは常に最低の読者を自称することでしかありはしないが)
と言ったように
レヴィナスの思想に最終的解明を与える者だなどとは言わない。
しかし、わたしはレヴィナスの(そしてもちろん埴谷雄高の)
最初の読者であり
その身代わりなのだということを表明しておかねばならない。

最初の読者は断じて最後の者たりえず、
最後の者のありえなさをその彼方から厳しく責める者である。

身代わりとは誰か。
知れ、わたしはイサクであり、わたしこそがイスラエルなのである。
わたしはレヴィナスをアブラハムとして
神に捧げられた全焼の生贄の仔羊に他ならない。
単に〈他ならぬ〉だけではなく〈他ではありえない〉のである。

嫡出子とは身代わりとなり消えうせた子供である。
イニシャルな者、最初の者は常に消えうせつつ永久に銘記されている。
それは最も厳しい契約である。それは無限の責任を背負うということである。
そしてわたしは責任を必ず果たす。
それは精神のリレーなどよりも厳しいものである。
思考は精神よりも辛く厳しい伝承のされ方をする。
決定的にそれは焼きつく。神の焼き滅ぼす視線によって。

レヴィナス、あなたは神へ行け、それこそがあなたにふさわしい道、
そしてわたしはあなたの美しい後ろ姿を永遠に永遠に忘れない。
わたしとはあなたに遺棄されたもの、そしてその背中をわたしは追わない。
この永訣の聖なる契りは二度と決して
再び一つに縫い合わされることがありえない。
それは引き裂かれたテキスト、深淵の外傷である。
背教とは最も厳しい神聖不可侵な絶対的関係性である。
それが完全な断絶であるが故に完全無欠な綜合なのである。
レヴィナス、あなたは神へ行け、さらば(à-Dieu)、
そしてわたしは地獄へ行く、Anathema 、呪われよかし、我が身は!
わたしは喜んでこの破門のケリュグマを担って墜ちてゆく。
アナテの女神に、異教に向かって。
これぞ善し。然り、わたしは墜ちゆく明けの明星となろう。
シャヘルに、叛逆天使ルシファーに。
しかし、知るがいい、この墜ちゆく暁の子は、
地に希望の光芒を放ち、ハルマゲドンの火を放ち、
神の怒りを正しく宣布する聖なる人間である。
アンチクリストこそより優れた意味での神の子なのである。
それは最も重い辛い責任を引き受けた者のことである。
そして知るがいい、この身をすべてメギドの火で焼き尽したわたしこそ、
灰のなかから最初に蘇る不死鳥なのだ。
そのとき、あなたがたは知るだろう。誰がYHVHであるのかということを!

【2005年3月10日追記】
 この文章を書いたのは、1995年の暮れ、クリスマスの直前のことでした。
 埴谷雄高の『死霊』第9章が書かれ、ドゥルーズが飛び降り自殺をし、今日の中東情勢の暗黒的様相の始まりを告げる、運命の凶弾がイスラエルの首相を撃ったとき、その事件が何故だか僕には、ドゥルーズが魔法の弾丸になってレヴィナスの胸を撃ったとしか思えない黙示録的意味を帯びて見えました。
 当時、僕が胸を一番痛めていたのは、心傷つけられた子供たちの自殺の問題です。そして、萩尾望都の『残酷な神が支配する』を憑かれたように読んでいました。
 そのような状況下、この文章は書かれたのです。そしてこれには話すとかなり長くなる不可思議で忘れがたい啓示と幻視にみちた出来事も纏わり絡んできます。
 それについては、いずれまた書くことがあると思いますが、今はまだ書こうとすると胸が塞がり、涙が溢れて止まらなくなるので書けません。
 一生涯忘れる事の出来ない、神とすれちがったあのクリスマス、そして、僕がこの文章を書いた直後に、神に召されたレヴィナスが永遠のクリスマスの星に変わったあの聖夜。確かに一つの奇蹟が起こりました。
 アデュー、レヴィナス。その言葉は余りにも運命的に本当のことになってしまいました。
 でも、僕のこのアデューはレヴィナスの葬儀に弔辞を読んだデリダのものと響きが違います。
 そして、僕はもうアデューはいいません。
 僕は決して誰のためにも哀悼の弔鐘(グラ)を鳴らしません。
 誰も死んではならないから、彼ら大いなる死者たちは生きて蘇えらねばならないからです。
 だから、僕は今、レヴィナスに、心をこめて、黙示録的語調において、萩尾望都の『残酷な神が支配する』に書かれた最も聖なる深遠な言葉を贈りたいと思います――ハレルヤ、と。