必然性は「このようでしか=ありえない」こと、他者の不可能性である。
しかし、この他者はそれ自体において否定的な他者、ありえない他者である。
それは〈このようでしか〉という仕方でしか言及されえない。
しかも〈このようでしか〉のなかにはその否定の影しか見出されない。
〈このようでしか〉は、この語りえぬ他者性の存在を必然的に告げるものの、
この〈それなくしてはありえないそれ〉自体を
それなくしてはありえないものとしている必然性の更に奥なる必然性を
こうしたおずおずとした否定的な間接話法によってしか示さない。
それは「語りえぬもの」であると同時に「示されえぬ」ものである。
だがこの「示されえぬもの」は、示されえないとしても、
指されまた暗示されている。
一体この全くありえない他者、しかし、
それにもかかわらず、無くてはならない他者、
在ってはならぬが故に無くてはならないこの不吉な他者性は、
一体、何者であるのか?

  *  *  *

必然性において不可能を主語的に支配している〈このようでしか〉は
主語(subjective)=実詞(substantif)以前にある。
つまり実体(substance/substantia)以前にある。

論理学及び文法学は
「主語」を「基体」(substratum/hypokeimenon)にあたる語で指している。
アリストテレスは、
命題の主語になっても述語にならないものである
「実詞=名詞」(substantif)を「実体」(ousia)と認めた。
それは具体的個物に認められる。

実体(ousia/substantia)は、
生成変化の根底にあり、
生成変化によって様相転換しながらも同一的に留まる持続体である。
他方、「基体」(hypokeimenon/substratum)は、
事物の諸々の性質や状態(属性および様相)の
基盤・土台にしてその担体である。

アリストテレスは「実詞=名詞」を「実体」と認めるとき、
「基体」+「属性および様相」としてそれを肥満体化している。

「実詞」は単に主語=基体であるのみならず
述語(述定されるもの)の内容となる属性および様相をも我が物としている。
つまりそれを自己固有化して取り込んでいる。

実詞は基体以上のものとして実体化されるとき、
述語内容として現れる属性及び様相を
包含し含蓄するものとして指示=参照されている。
ここには主語=基体による属性及び様相(述語)の消化吸収があるのだ。

アリストテレスは「実詞」を「実体」(ousia)に肥満体化させるときに、
土台に属辞を根付かせ、
恰も植物を基体という花壇に移植するように、
または枝を幹に接木(接ぎ穂)するように、
そこに帰属させ所属させ従属または隷属させている。
すなわち属辞は主語のなかに根拠を有する。
そこに根を張らねばならない。遊離してはならないのである。

主語はこのようにして属辞を縛り付け、束縛する。
これが繋辞(存在/être)の魔力である。
繋辞の効果によって実詞は実体化され、基体以上のもの、
基体とそれが担う諸々の性質状態(属性および様相)の統一体、
ウーシア(実体)となる。

すると、存在の背後に所有(avoir)の響きが暗示されているのだ。

繋辞の魔力は属性および様相の客体性(objectivities)を繋ぎとめ、
それを己れ(主語)に帰属させ、引き込み、吸い取ることである。

しかし、この繋辞の連接=接続、
〈文〉(sentenceまたはsententia)の文目を分かつこと、
切り離すこと、繋辞を切断するような思考は可能である。

それはアリストテレスの実体を中断する。
属辞から切り離された実詞は純粋かつ赤裸な、
〈基体〉の処女性をあらわにする。
主語としての主語たる〈基体〉は〈実体〉に先立ち、
かつその下に横たわるものである。

だが、この〈基体〉以前のものへと寧ろ目を向け、
瞳を反転させる背視のエピストロペーを行うとき、
そこに、〈実体〉にも〈基体〉にも先立つ主語以前の主語が閃く。

それは存在に先立つ純粋な出来事としての必然性である。
必然は自然に先立つ神秘である。

わたしはレヴィナスのイリヤ論を念頭に置きつつ、
そしてその後の存在からの離れ去りとして遂行された
〈彼方〉の思考を追想しつつ語ろうとしている。
だが、わたしは彼の方角である〈彼方〉(l'au-delà)には行かない。
むしろ彼女の方角である〈其処〉または〈底〉に赴く。

Apophisics及びApostaseは、
何よりもレヴィナスの倫理の形而上学に対する背教論だからである。

わたしもまたある種の別の仕方(l'autrement)を求める。
それはしかし単に
〈存在するのとは別の仕方〉
(l'autrement qu'être)であるだけではなく、
まさにそのような〈別の仕方〉、
他人事のようにまた他者のように
ありもしない倫理を形而上学化し
ありもしない形而上学を倫理学化するレヴィナスとは別の仕方、
他者的ではないような別の仕方、
他者とは別人であるような仕方、
〈他者とは違った風〉に
そして〈別の仕方とは別の仕方〉
(l'autrement qu'Autrement)、これを求めるのである。

それはつまり〈別人〉のことである。
〈別人〉とは〈他者とは別様に〉ある。
それは他者のまた別人である。
そして〈別人〉は、他者よりも遥かに〈別の仕方〉的である。
それは、l'autrement qu'Autreそのものといってもいい。
何故なら、それは〈他者〉というよりも寧ろ一層全く
〈違った風=まるで別人のよう〉(autrement)
ということそのものだからである。

〈別人〉とは〈別人のよう〉でしかありえない。
だから、それは単に〈別の仕方〉であるというよりも
〈全く別の仕方〉(tout autrement)というべきだろう。
それは全き他者(tout autre)よりもずっとautrementである。

故にこう書くべきであるかもしれない。

《Le TOUT-AUTREMENT EN SOI est décrit tout autrement plus que le tout autre.》

しかし、これは翻訳不可能な語である。
しかし、この翻訳不可能性は非常に奇妙なものだ。
〈別人〉は〈Le TOUT-AUTREMENT EN SOI〉には翻訳されえない。
〈別人〉はたんに普通に〈Autre〉に翻訳可能な語だからである。

〈別人〉は翻訳可能な語である。
しかし、この翻訳可能な語はだからこそ翻訳不可能な語なのである。

〈Autre〉は決して〈別人〉には翻訳されえないし、されもしない。
それは決してそのようには翻訳されず、
常に別の仕方で、別様に(autrement)〈他者〉としか翻訳されえない。
翻訳行為それ自体が、〈別人〉を忌避せざるを得ない。
それは避けて通られる。
常に別様にありうるのは〈他者〉であって、
〈別人〉は不可能なものなのだ。それは決してautrementではありえない。

何故なら、翻訳は仏和的一方向性に沿ってのみなされたのみであって、
そこには和仏的な逆転、瞳の反転、エピストロペーは行われなかったのであるから。

〈Autre〉はそれが
レヴィナス、ラカン、クリステヴァ、デリダ、ブランショの
誰のテキストから抜粋された語であるにせよ、
常にどういう理由であるか不明確なままに
〈他者〉と翻訳され〈別人〉とは訳されなかった。

〈別人〉は常に〈他者〉の陰に覆われ、
文字どおり暗殺されてきた語であり、それゆえにこそ問題提起的である。

〈別人〉は何故選ばれなかったのか。
何故〈Autre〉は必ず〈他者〉と見なされ、
〈別人〉をわたしたちは見てはいけないのか。

この翻訳の問題は例えばデリダが〈バベル〉の問題として、
また〈シボレート〉の問題として
夙に真剣な考察を呼びかけている
常にアクチュアルで本質的な、
または核心的な哲学的問題であるという以上に、
根本的に深刻な問題である。

翻訳の問題は、
それを抜きにして物を考えることが難しい
最初の基本的な難題の一つである。
しかしそれは柄谷行人のような稀な例を除いて、
殆ど我が国の言語〈日本語〉を除外した処でしか論議されていない。

にもかかわらず、この翻訳の問題が翻訳されて我々に現象するのは
わたしたちがそれを見てはいけない〈日本語〉の鏡を通してだけなのである。

日本語を不問に付すことと〈別人〉を不問に付すことは表裏一体である。
しかし根本的に深刻であるとわたしたちが言いたいのは
我が国のこの文化風土の知的怠慢、
常に外国語で物を考えているふりをすること、
その愚かしさだけの話ではない。

〈別人〉の翻訳不可能性はより深刻にして本質的な黙示録的難問である。
〈別人〉の翻訳不可能性は単なる言語学的次元の問題として
〈Autre〉と〈別人〉の間にだけ横たわっているのではない。

〈別人〉の翻訳不可能性は〈他者〉との間にも横たわっている。
〈別人〉は〈他者〉に翻訳できないのである。
それは類義語なのではない。
寧ろ〈Autre〉の鏡に映る同音異義語=同名異人なのであり、
深い意味においてそれは〈Homonym〉(同じ名/人の名)なのである。

このホモニミー(同形異義)には如何なるハーモニー(調和)もない。

わたしたちは何もフランス文学者たちのせいで
〈別人〉を見てはいけなくされているのではない。
そもそも本質的に〈別人〉は見てはいけないもの、
禁忌になっているものなのである。

しかし、それは見えないのではなくて
見えるものであり見えているものですらあるのだ。

それは如何なる意味でも覆われてはいない。
寧ろわれわれがそのあられもなさに目を塞いでしまうのである。

〈別人〉は隠されていない。
寧ろわれわれがそれから身を隠す。
そこに隠されているものとはわれわれ自身なのである。