さて、まずあるものである事実の結果、このわたしはある。
そしてこのわたしは神澤昌宏というものである。

しかし何故、このわたしがあるのか。
しかし何故、このわたしは神澤昌宏というものであって、
何か他のものではないのか。
例えば、Nobodyや猫やワープロやガラスやあなたや
フィリップ・K・ディックやラスコーリニコフや魔王サタンではないのか。
偶然たまたまそうなっただけの話であって、
こんなひどいものに生まれたのは単に運が悪い
としか言いようのないものである。
またひどいものであるとはいったが
それでもわたしはわたしに満足してはいる。
しかし、幸運にせよ不運にせよこれは偶然的存在である。

事実は実際そのとおりであることだけを告げるが、
その必然性を告げない。

故に、このわたしが神澤昌宏というものであるということは
まだ必然的に真なることではない。

このわたしが神澤昌宏というものであるという
事実性、実在性は取り立てて不思議がるべきことではないが、
まさにそのたんなる実在性、現実態(エネルゲイア)の故に
可能性(ディナミス)の朦朧とした、
ああでもありうればこうでもありうるような
多元的な可能世界のパラレルワールドのさまよい出る根拠となり得る。

何故なら現実性はそれ自身が可能性の一つの実現と見なしうるものであるが、
だからといって直ちにそれを必然的な現実性、
すなわち完成された完全現実態(エンテレケイア)であるとは
見なし得ないからである。

すなわち現実性はたちまち可能性の広がりの中に没する。
それは単に多くの可能性のなかのたまたま一つの実現であるに過ぎない。
その他の可能性も同様に生起しうるものであると考えられるのだから、
今たまたまこのように生起しているだけのものが
明日には、或いは次の瞬間には、
全く異なるものに生起(生成変化)して、
この現在の現実態が再び可能性=潜勢態の海の中に
引き篭もらないとはいえないのである。

無限の可能性は常に有り得るものである。
〈ただある〉の味もそっけもない小さな事実性は
その影に巨大な無限の可能性を潜在的に引きずりかつ広げ持つ。
可能性もまた無限性としてのみある。それはしかし無際限な無限性である。

他方、現実性=実在性は、
この限りない可能性を否定できない不可能性としてある。
可能性は限りのない可能性として事実の現実性=実在性によって示される。

現実性は可能性の無限の奈落への墜落として、
海へ落ちて行く小石として、
このような背後への失墜、それ自身の消滅としてのみ生起する。

この小石は自分の周囲に無限大へと広がる驚異の波紋の輪、
終わりなき自問の輪をはてしなく投げかけ続けるものとしてある。
たんにそれは現実的にあるのではなく、共に可能的にある。

それは可能性から永遠に切り離されたものとして、
現実の中に完成品としてあるのではなく、
それ自身の恐るべき未完性としてある。

この小石はたんに現実世界にあるだけではなく
同時に無限的可能世界のなかにも身を置いている。

一個の小石のなかに無限の可能性は問題提起される。
むしろ〈ただある〉の裸体の事実性は
問題提起としてこそ〈そこにある〉(Dasein)。

或る一個の事実性〈そこにある〉は
おのれの目的=終わり(テロス)に達していない。
それはしかし到達していないというよりも
むしろおのれの目的=終わりの棄却として、
そのテロスを超え出でて〈ある〉。

それはおのれの完全現実態(エンテレケイア)
または完成態よりも過剰な未完成態である。

エンテレケイアなきエネルゲイアの充溢、
それはデュナミスの無限をこそ
新たなエンテレケイアとするようなエネルゲイアである。
エネルゲイアの内に異変が、反転が、転回が生起している。

ここに一撃性の問題がある。
贈与の一撃或いは事後性(アプレ・クー)の一撃性の問題がある。
おのれの目的=終わりを過越した存在として小石は超越的に現出している。
それが小石の超歴史性である。

事実性とは、
その目的=終わりの実現を目指す運動としての
歴史性(ヘーゲルの弁証法的歴史性/存在の終末=目的論)を、
この歴史をこそ彼方へと追い越す。小石は歴史の彼方の存在である。

そして近代の超克の終焉として己れを提示してもいる。
何故なら歴史のテロスとは近代の実現だからである。

それはたとえ今が古代ギリシャであったとしても何も変わらない。
ここに古代の小石があるとしても、
それは己れ自身の近代の超克を終焉したものとしてしかありえないだろう。

〈近代の超克の終焉〉とは小石の現代性=今日性(actuality)である。
しかし、小石は一種のピリオドであると同時にその手前という様相も持つ。
それは近代の完成という別の様相である。

小石はそれ自身のうちに近代性つまり己れ自身の歴史的全体性を控え持つ。
それはそこから小石それ自身を自己実現する。
アリストテレスは既にそのようなものとして物を見ていた。
アリストテレスは近代というものを知っていたのである。

事物は自己実現した事物であり、
生成は己れの目的=終わりのなかに成就してエンテレケイアとなる。
それは己れの終末に留まる存在である。
この終末=目的をトポスとして事物はその不動性に幸福に石化する。
時間は終息し完了している。
そしてこの現在完了形が現在進行形となる。
故に事物は永遠の存在となる。
それはそれ以上過ぎ越されることのない完全現在形である。

ここにポテンシャル(デュナミス)の問題がある。
デュナミスは自己保存の力として変容し
終末=目的の所有態(ヘクシス)とならねばならない。
実現への始動因であるのみならず
その結果である完全現実態(エンテレケイア)に於いて、
形相(目的=終末)の所有能力、保存能力として生き続けねばならない。

このようにしてこそ完全現在形(完了進行形)の現在は
現在それ自身の持続、永遠の現在の成就=完成の持続力となる。

現在とは持続なのである。

その完全体(エンテレケイア)の所有によって、
もはやこれ以上生成変化しえない存在の存在的な時間性が生じる。
それが持続する現在の永遠性であり、
永遠性は完了進行形としてのみあり得る(可能的)である。

この持続する完了進行形現在の不動の永遠性こそが近代である。
それは別にヘーゲルが発明したものではない。
アリストテレスが大昔に発見していた
思考の原理(アルケー)であるに過ぎない。

ただ小石はある。
しかしこの小石のなかに無限の可能性の海がざわめく。
わたしはそれに畏怖しまた驚異する。

パスカルとは違う。
それは無限の空間の永遠の沈黙ではない。

沈黙ではない。
無限の可能性の、時間も空間もない、終わりなき沸騰である。
この無限の沸騰によって小石の現実存在は灼熱的に熱く手を焼く。

またわたしは『存在と時間』のハイデガーとも違う。
(『物への問い』の彼には近いかもしれないが。)
この燃えるような手中存在たる小石の〈ただある〉は、
手元存在(道具)でもなく手前存在(対象)でもない。
それは世界内存在に属さない。
だが単純な世界なき実存ということもできない。
世界を欠乏する実存ではない。
それは世界から切り離され、
見捨てられて孤独に冷えきった無の中の小石ではない。
この小石はむしろ灼熱の爆弾、核兵器的なものである。
この小石はそれ自身がメギドの火である。
この小石は世界内存在でも世界外存在でもない。
それ自体において反世界的存在である。